松浦寿輝「方法叙説」(群像2004年9月号)

松浦寿輝による、早すぎる自叙伝であり自作解説。昨年これを発表した時、松浦先生はまだ50歳になるかならないかだったはずです。時間軸に沿った展望のもとに、過去から現在(現在から過去)に向かってリニアに自作を振り返るというのではなく、あるいはひとつの固定された視座から自作を分析してみせるわけでもなく、複数の形式を採用しつつ断章を連ねてあちらこちらとさまようように過去の著作群のあいだをすり抜けていく文章は、松浦寿輝のこれまで産み出してきた言葉たちのさまざまな様態(詩・批評・小説・エッセイ)を反映するかのようで、そして同時に、「方法」にまつわる次のような認識を、今まさにここで実践してみせている、ということなのでしょう。

「方法」とはそれが真に有効な「方法」として働くかぎり、それが機能する瞬間に費消され尽くし、消滅してしまうはずの不可視の何か、つまり事後的に再構築されることによってしか見出されえない何かであるに違いないからだ。(中略)たしかなことは、その一つ一つにおいてそのつど機能するわたしのやりかたがあったはずだという一点である。

十数頁にわたるさまよいの果てに、松浦寿輝は「わたしのやりかたは依然として不分明なままである」と書き付けるものの、すぐに続けて、「それが何らかのかたちで一度かぎりの出来事のように機能し、わたしの詩や批評や小説をそのつど可能にしてきたということだけは、以上の叙述を通じて一応は確証しえたのではないだろうか」と結ぶのですが、まさにここに至るまでのさまよいにこそ、そのような「一度かぎりの出来事のように機能」する「やりかた」が、「機能する瞬間に費消され尽くし、消滅してしまうはずの不可視の何か」があるわけで、そしてその「わたしのやりかた」のまったき作動と消滅が、この文章に『JLG/JLG』(ジャン=リュック・ゴダール)にも似通った、魅惑的な感触をもたらしているのです。
1999年から2000年にかけて「批評空間」に掲載されたというこれに先立つ3章を、わたしはまだ読んでいないのですが、それら全てを合体し大きく組み替えたうえで刊行されるという『方法叙説』という名の書物が、美しいものになるであろうことは間違いありません。とても待ち遠しいです。