阿部和重「グランド・フィナーレ」(群像2004年12月号)、第132回芥川賞選評(文藝春秋2005年3月号)

阿部和重芥川賞受賞作を、なぜか初掲載誌で読んでから、文藝春秋掲載の選評を読みました。今さらな感じは否めませんが、あくまで自分のために感想を書き留めておきます。
 
それにしても芥川賞の選考委員たちのほとんどがこの優れた小説をまともに読めていないありさまには驚かされてしまいます*1。「物書きとしての内面的なニーズが一向に感じられない」(石原慎太郎)、「危険なモチーフの割りに毒がなく最後まで安心して読める」(村上龍)…つまりは主題としての「幼児性愛」が「内面的」必然として、リアリティをもって描かれていない、というわけです*2
しかし阿部和重の書く小説は、そういった主題の内面化を拒む身振り、現代風俗的な題材に心理的な奥行きを導入するような真似だけは慎むのだという倫理ゆえにこそ、他の凡百の小説に比して優れているのです。小説「グランド・フィナーレ」にあって、主人公沢見がなぜ「幼児性愛」に走ったのかといった描写、あるいは「幼児性愛」という自らの欲望を深く見つめ直しそこからいかにして立ち直るかといった展開は、おそらく小説家阿部和重の頭には一度たりとも浮かばなかったことでしょう。ここに書かれているのは、「幼児性愛」者は「幼児性愛」に走る、という事実以外の何ものでもないのです。
そう、阿部和重の小説とは、売春者は売春し、密告者は密告する、という同語反復的世界であって、売春する女子高生がなぜそのような行為に走るのかを動機づけようとする(村上龍的な)小説作品とは無縁なのだ、と書いたのは確か金井美恵子さんだったと記憶しています。そしてそのような同語反復的世界を作り続けてきた映画作家ゴダールという人がいて(「女は女である」!)、その同語反復的世界のことを「ゴダールの宇宙」と命名したのは、確か安井豊さんでした。…ともあれ、ゴダール的な小説家であるところの阿部和重に、「幼児性愛」者の内面を求めるというのは、ですからお門違いもいいところなのです。
 
では阿部和重が小説を書く動機として、「内面的なニーズ」など一切存在しないかと言えばそんなことはなくて、これもすでに多くの人が指摘していることですが、彼が小説を書き続ける動因とは、物語の「構造」に他なりません。「構造」であり「構造」の揺らぎであるわけですが、例えば「双子みたいな」ふたりの少女が小説の「構造」内においてひとまずは「双子」として機能しつつも(「双子」の小説群を想起すること)、同時にあくまで双子ではないことでズレが生まれるわけです。あるいは誘惑者による否定された「視線」の再導入、あるいは1章の最後に発せられるIの言葉が2章における主人公を大きく規定してしまうという部分もまた、言うまでもなく「構造」です。小説というものの持つ「構造」が小説家を駆動しているのであり、村上龍が未熟さを指摘する「わたし」という一人称の導入も、「構造」的な要請による確信犯的なものであることは、作品を読めば十分に理解できるはずなのです。
 
なんだかありきたりな感想ではありますが、あまりにひどい(小説に対する)無理解ぶりに、受け売りを承知の上であらためて書き連ねてみた次第。(あとで恥ずかしくなって削除するかも。)それにしてもここまで理解されずに賞をもらってもうれしくなかろうと思うのですが、まあ余計なお世話ですね。ところで『ダ・ヴィンチ・コード』のダン・ブラウンに決定的に欠けているのはまさにこの「構造」への意志なわけで、「グランド・フィナーレ」の長さの必然性に比べれば、小説『ダ・ヴィンチ・コード』の無駄な冗長さがあらためてよく実感できるというものです。

*1:全く言及していない古井由吉や、山田詠美池澤夏樹宮本輝のように一定の評価を与えていても何も言っていないに等しい選評もあります。

*2:ちなみに村上龍は数々の批判を並べつつも、「小説にしかできないことに作者が挑戦しているように感じた」という理由で「グランド・フィナーレ」を受賞作として推しています。