『ユナイテッド93』(ポール・グリーングラス)

新宿武蔵野館3にて。終盤ずっと吐き気に悩まされていたのですが、これは激しく揺れるキャメラに酔ってしまったからなのか、それとも直前に食べたいかたらこスパゲッティのせいなのか、はたまたゲームのしすぎで眼が疲れているだけなのでしょうか。
例えば連邦航空局のボスが事態の把握に努め必死に指示を飛ばす横で、東洋系の大柄な男性がぼーっと突っ立っていたり、応答しない航空機の対応にテンパった管制官が「俺はこれで手一杯だ、俺のところにほかの飛行機を持ってくるな!」などと大声でがなり立てたり、ハイジャック犯のものと思われる声を分析して乗っ取られた旅客機が複数あることが分かったり、すんでのところで衝突を回避したと言ってほっと胸をなで下ろしたかと思えば、異常を察知して情報の収集に追われるうちに第二、第三の「衝突」が起こる様を大写しされたテレビ中継画面でなすすべもなく見つめ無力感に襲われたり…このフィルムをあくまで「劇映画」として観た場合、こういったよくできたシーンや魅力的なキャラクターをいくつもあげることは可能でしょう。軍司令部で上官に指示を仰ぎつつ次々に命令を下していく少佐の人なんか、かなりかっこいいとも思います。
しかし、引き続きあくまで「劇映画」として観た場合に、という前提で話を進めますが、肝心のユナイテッド93の機内がどうにもおもしろくないのです。あのアラブ系ハイジャック犯たちのおざなりなキャラクターや、行動を起こすのを中途半端にためらうあたりもいただけません。乗客や客室乗務員たちも、誰かひとりふたりのキャラを際だたせるような方法を採っていないということは理解できますけれど、しかしこれが物語である以上どうしても焦点化される人物が幾人かいるわけで、テロリストたちの行動を阻止しようとする多くの乗客に混じって、犯人の要求通りにしておけば大丈夫だと主張する男がいたり、飛行機の操縦経験のある人や管制官をやっていたという男が出てきたり、果ては柔術の心得のある男まで登場して、でも極端な描きわけはしませんという、このためらいがちな描写がどうにもこうにも歯がゆいのです。いっそのことハイジャック犯たちから操縦桿を奪い返してどこかの海上に不時着し乗客は全員無事でしたとか、あるいは操縦桿を握っていたハイジャック犯(実は妻子を人質に取られて仕方なくやっている)が多くの人命を犠牲にする行為に疑問を覚えて仲間たちを説得しようとして逆に殺されたりとか、軍部と連邦航空局にテロリストの協力者がいたりとか(あのかっこいい少佐あたりが適任でしょうか)、そういう大胆な物語と明瞭な人物造形の映画を観たかった気もします。などと書くと死者たちへの敬意に欠けるとの非難を浴びそうですし、実際にそういった「改変」が行われればわたし自身も「死者への敬意に欠ける」と感じるかもしれませんが、その一方で、繰り返しますがこれがあくまで「劇映画」である以上は「劇映画」の論理で観られるべきであるし、このような中途半端なリアリズムが死者への誠実さを示しているかと言うと、おおいに疑問であるとも思うのです。
 
…何を言いたいのか自分でもよく分からなくなってきました。こんなに長々と書くつもりではなかったのです。吐き気がますますひどくなってきました。もう寝ます。