『デジャヴ』(トニー・スコット)

新宿プラザにて、2回目。
 
まずはこのフィルムがミシシッピ川とそこに浮かぶ船から始まることに注目したいと思います。現代を舞台とした物語ですから、もちろんこの船は「蒸気船」ではなく石油燃料で動くフェリーなわけですが、こういった差異を考慮してもこの冒頭部分は『周遊する蒸気船』(ジョン・フォード)を想起させるに十分です。
また、フォードへの言及はさておくとしても、ミシシッピ川とその周辺を主要な舞台としたロケーションのすばらしさと空間設計の確かさが、この映画に確固たるリアリティと観るものを惹きつけてやまぬ魅力を付与していることは間違いありません。事件の直後、デンゼル・ワシントンが船に乗って現場を見て回る場面で激しく降りしきる雨、船に乗ったジム・カヴィーゼルが警官隊に取り囲まれ逮捕されるシーン、ジム・カヴィーゼルの住む川べりの家、などなど…
 
語りのスピードも実に巧みに設計されていて、デンゼル・ワシントンヴァル・キルマーの車で監視機械(実はタイムマシン)のところに連れて行かれるあたりからどんどん加速していくそのスピードがまた非常に心地よいわけですが、あのハイウェイでの驚くべきカーチェイスシーンも、重層的な時空間による意図的な混乱でもって語りのスピードを操ることで、同時に空間の立体性を獲得し、単調さを免れることに成功しています。
 
あの巨大な装置、監視機械=タイムマシンは、新作と同じプロデューサー=ジェリー・ブラッカイマーとのコンビで製作された『エネミー・オブ・アメリカ』から監視社会の主題を引き継いでいるかに見えて、次第に「映画をめぐる映画」の主題へとその様相を変化させます。
一回限りしか見ることができず、巻き戻しが不可能な映像をただひたすら見続けることとは、「映画」を観ることそのものです。この映画におけるデンゼル・ワシントンは「よりよく見る人」であり、その「よりよく見る人」が「映画」に魅せられてゆき*1、その結果「見ること」を放棄して「見られること」を選び取り、自ら「映画」の中に入り込むという物語であると、ひとまずはまとめることができるでしょうが、しかしここではその点を強調するよりも、優れた映画は常に映画をめぐる映画になる、と言うにとどめておきます。
 
ラストについては、デンゼル・ワシントンジム・カヴィーゼルから聞いた言葉を過去のジム・カヴィーゼルに投げかけて、あり得たかもしれない未来の自分が発した言葉を耳にしたジム・カヴィーゼルの混乱を引き起こし、それによって改変不可能に見えた過去を書き換えたのだというのが脚本的な意図ではあるのでしょうが(そしてその同じ「混乱」がラストで反復される)、わたしとしては前作『ドミノ』から引き継がれた「落下」の主題、すなわちタイトルバックで少女の手から川面に落ちる人形の描く落下運動が、フィルムの終盤、デンゼル・ワシントンポーラ・パットンによって控えめになぞられることにより、事態を決定的に変化させたのだと考えたいところです。
 
トニー・スコットの近作ではキャリアのピークをいくらか過ぎたベテラン俳優が主人公の理解者といった役どころで起用されますが、『デジャヴ』のヴァル・キルマーもまた、『トップガン』の頃の引き締まった肉体は見る影もなくなったでっぷりとした身体で、『ドミノ』のミッキー・ロークや『マイ・ボディガード』のクリストファー・ウォーケンと並ぶ、非常に魅力的な中年を演じております。アダム・ゴールドバーグに「終わったら電気を消していってくれよ」と言い残して帰っていく場面など、実にすばらしいです。

*1:そういえばデンゼル・ワシントンは最初にポーラ・パットンの死体を見たとき、彼女の顔をポラロイド写真に撮るのでした。