大江健三郎「読むことに始まり、読むことに終る」(すばる2009年1月号)

すばるには時々、大江健三郎の講演録が掲載されることがあり、毎月の発売日には楽しみに目次を見る習慣ができています。講演の採録の場合、講演会やシンポジウムの趣旨に即した話題に始まり、主催者の仕事への敬意を込めた言及やユーモアに満ちた挿話を織り交ぜつつ、そこに大江さん自身が長年追い続けている主題を絡めていく、その話の流れ全体に、世界的な小説家の手によって丁寧に組み立てられた構造体の美しさを堪能することができます。そのような丁寧さは「小説的」な細部の突出や逸脱といったものとは相反するものであるかに見えるかもしれませんが、しかしそこには時として「小説的」としか言いようのない瞬間が現出しもするのです。
さて、すばる2009年1月号に掲載された「講演採録」には、いつもとは異なる特殊な事情があります。「すでに申したようなことで流してしまった講演を、その準備稿にしたがって、ひとり無益に思い返し続ける様子の、いわば実況中継です」と語られる(書かれる)とおり、この文章は「実現しなかった講演」の「採録」なのです。「聴衆のいない書庫の狭い空間に坐り込んで、やるはずだった講演をひとり(むなしく!)つぶやいてみる、そのような仕方でやっていること」と語られもするその設定自体が、すでに充分に「小説的」と言えるかもしれません。そしてたとえば、講演会当日になって日にちを勘違いしていたことが発覚し、大騒ぎになった後のことを描いた、こんな挿話。

 もう間に合わないことを確認して、やはり老年になって子供に戻るというたぐいだと思いますが、退行現象を起した私は、仕事場兼寝室の脇の書庫の椅子に坐り込んで、じっと「落ち込んで」いました。私は普通この言い方を使わないのに、まさにそれだ、と認める思いでいたものです。そしてもう夜更けでしたが、家内に様子を見てこい、といわれたのか、近年目と足が危うく、ひとりで階段を上ることがなくなっている光が書庫に顔を出して、ゆっくりした静かな声で、
 ----十月五日は、日曜日ですよ! といいました。
 ----そうだ、昔はきみと、こんなふうに「サヴァン遊び」をしたもんだ、と私は「落ち込んで」いる自分を恥じる気持もあり、一九三五年の、と私の誕生日の日付をいって、久しぶりに遊びをやるつもりで曜日を質ねましたが、もう四十代半ばの光は、わかりきった質問は無視する大人なのです。
 そして、
 ----気持が変になっている、のですか? といって、私がついに元気をふるい起し、かれの肩を抱いて階下に降りて行くことにするまで、そこで待ち続けたのでした。