『FNSの日26時間テレビ2009 超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!』

今年の総合司会は島田紳助、日曜夜9時スタートの『行列のできる法律相談所』の関係でいつもより1時間短い「26時間」でした。さすがにわたしは途中で何時間か寝ましたが、半分以上は見ていたと思います。
 
昨年の明石家さんま司会による「27時間テレビ」は本当に強烈な体験でしたが、今年もすごいものが見られるかもしれないという期待は、残念ながらかなえられませんでした。急いで付け加えるなら、わたしは島田紳助の番組が嫌いではありませんし、むしろ好んで見る方です。時間があえば『クイズ!ヘキサゴンII』も『行列のできる法律相談所』も見ますし、『松本紳助』は毎週欠かさず見ていました。では今回の『26時間テレビ』のいったいなにがわたしの好みに合わなかったのか。たとえば「三輪車12時間耐久レース」。このレースをめぐって紳助は番組内で幾度も「終わった時は感動する」「絶対泣ける」を繰り返し、そしてレース終了間際には実際に涙ぐんでもいましたが、感動することを目的に作られた過酷なレースを見て感動しろと言い続けるさまは、わたしには「感動」の押し売りとしか感じられませんでしたし、紳助が「感動」を口にするたびに、あるいはモーニング娘。藤本美貴が応援に駆けつけてコメントを口にするたびに、気持ちが白けていくのをどうすることもできませんでした。あるいは山田親太朗。番組スタートから意味不明な発言を繰り返すこの青年をどう扱うのかも今回の注目ポイントのひとつだったと思いますが、結局はあまり話を振らないというかたちで、番組のおおきな流れから外す方向で「処理」されていました。日曜日になってから山田親太朗が発言する場面をわたしは見た記憶がありません(あるいは見ていない時にめっちゃしゃべっていたのかもしれませんが)。付け加えるなら、一番最初の番組決めルーレットクイズ。邪推かもしれませんが、あれも最初からどの番組に誰が出るか、決まっていたようにしか思えない結果でした。
 
ヘキサゴンメンバーによる楽曲が次々にヒットするさまや料理店経営での成功を見れば、島田紳助のプロデューサーとしての能力の高さは明らかです。今回の番組中でも本人が言っていましたけれど、最初は自分自身をプロデュースして成功したが、それが果たして偶然だったのか、同じ方程式がほかでも当てはまるのかどうかを、番組の出演者やテレビ番組そのものや料理店を使って実験している、ということなのでしょう。そして紳助のプロデュース方法とは、ひとつの「物語」を設定することです。たとえばヘキサゴンファミリーの「成長」の物語。「ヘキサゴンメンバーはバカばっかり」と言うかたわら、「おバカ卒業」や「かしこくなった」を繰り返します。今回の番組で言えば「三輪車12時間耐久レース」がまさにそうです。恋愛の告白や父への謝罪といったちいさな「物語」を集積させ、レースというおおきな物語に収斂させていくわけです。しかしその一方で、設定した「物語」にそぐわない異物は冷たく扱われます。山田親太朗しかり、失敗に終わった「イカダマラソン」しかり。あるいは「さんま・中居の今夜も眠れない」のなかで演じられたビートたけしのコントしかり。昨年の続きのようにして繰り広げられるはちゃめちゃな3本のコントを見て、紳助は(正確な言葉は忘れてしまいましたが)「すごいなぁ」の一言だけですぐほかの話に移ってしまい、そのせいでたけしのコントは完全に浮いていました。「物語」に貢献しない「要素」は、紳助にとって不要な夾雑物でしかないのだと思います。もちろんたいていの「要素」はたやすく「物語」に回収されます。出演者たちは職業意識が高ければ高いほど積極的に「物語」に同調するでしょうし、それでなくても「物語」の力は実に強力なものです。
 
しかしながら、「26時間テレビ」(「27時間テレビ」)とは祝祭の場のはずです。少なくともわたしはそういう場を期待するからこそ長時間見続けるわけですし、昨年は実際に祝祭的な時空間が実現していました。そしてそこにこそ島田紳助の「物語」の決定的な限界があって、彼の掲げるテレビ的な「物語」は予定調和であるが故に祝祭的な機能を担うことができないのです。同様に、明石家さんま島田紳助の決定的な相違点もここにあります。たとえば明石家さんまなら積極的に山田親太朗をいじったと思いますし、失敗した「イカダマラソン」を徹底的に笑いのネタにしたと思うのです。「物語」からはみ出る「狂気」にこそ祝祭の萌芽があることを、昨年のさんまは熟知していました。そしてそういう場だからこそ、ビートたけしの振る舞いも無類の輝きを放っていたわけです。
 
いろいろ書いてきましたが、もちろんすべてが退屈だったと言うつもりはありません。「さんま・中居の今夜も眠れない」の冒頭で、紳助とさんまがふたりだけでえんえんと話を続けてしまい、中居を呼び込むタイミングを逸し続けるさまなどは爆笑ものでしたし、たけしのコントは狂気に満ちて圧倒的でした。その後の「真夜中の大かま騒ぎ」は前半寝ていて後半しか見ていませんが、その後半だけでも充実していたと思います。しかし全体として見れば、昨年のような世界のたがが外れる瞬間は、残念ながら現れ出ていなかったと言わざるを得ません。
 
(7/28追記)島田紳助と祝祭という主題をめぐってあれこれ考えるなら、「M-1グランプリ」に言及しないわけにはいきません。「M-1グランプリ」は確かに祝祭的空間たり得ていると思いますが、あれは優勝者の持つ天才性や異物性が顕彰されているようでいて、実際は実力あるコンビが本番で緊張して思うように普段の漫才を演じることができなくなるとか、敗者復活戦から勝ち上がってきたコンビがそのままの勢いで普段以上の力を発揮し、他の候補を抜いて決勝戦に残るとかいう「物語」をこそ売りにしている点で、極めて島田紳助的なテレビ番組なのだと思います。では「M-1グランプリ」が祝祭的で「26時間テレビ」がそうでないとして、両者を分かつポイントはなにかと考えれば、ひとつは審査の場において島田紳助が絶対的な権力を握っておらず、他の審査員と同等の価値を持つ点数しか所持していないという点、もうひとつはその場で演じられる漫才そのものに、そういった「物語」を無化してしまうような圧倒的な力があるという点ではないでしょうか。しかしこれについてはもう少し時間をかけて考える必要がありそうです。
なお、島田紳助がいつも山田親太朗に触れないようにしているわけでないことは、普段の『クイズ!ヘキサゴンII』を見ていれば明らかです。ここでわたしが言いたいのは、山田親太朗を「物語」に取り込もうとする(ユニットを組ませる計画があると繰り返し語っています)島田紳助に対して、明石家さんまならきっと山田親太朗のやばい部分を積極的につつきまわしてはあの痙攣的な引き笑いを繰り返すに違いない、ということです。