村上春樹『夏帆―The Tale of KAHO―』(新潮社)

紙書籍版を読了。

淡々と進み、そのまま何事もなく最終ページにたどり着いた、というのが正直な読後感です。小説内でなにかしらの目的が設定され、そこに至るルートを、飛躍や劇的な展開もなく、ひたすら個々のエピソードを着々と積み上げていき、予定していた通りの結末に至る、その道行きをずっと見させられているような感覚。村上春樹はもともとこういう書き方をする小説家だったかもしれませんし、今回特にそういう印象が強いようにも感じます。一瞬あれっと驚かされたのは、モーターサイクルの男・佐原の、いささかご都合主義的に見えなくもない役割転換(?)が告げられる場面ぐらいでしょうか。あれは悪役を出しすぎて収拾がつかなくなり、急遽味方側に変更したということなのか、それともこれも当初からの計画通りなのか…。とはいえそれも、物語の淡々とした進行を裏切るような異物感には至らず、予定通りの結末まで連なる道のりの、敷石のひとつというようにも感じられます。

主人公の夏帆が、物語のひとつひとつの展開やいくつかある決定的な場面において、なんら主体的に行動しない点も、印象に残りました。まるで自らの意思を欠いているかのように、ありくいの奥さんや「とぎや」の主人、モーターサイクルの男、猫のスカーレット・ヨハンソンといった登場人物(動物)たちに導かれるままに行動するさまは、いささか異様です。いやそれは違う、ありくいの奥さんもスカーレット・ヨハンソンも、夏帆が作中で書いた(書きつつある)絵本の登場人物(動物)であって、他者ではない、つまりは自分の意思で行動しているようなものだ、という指摘もあるかもしれません。確かに小説の終末部にも、「私がこの猫に従うというのはつまり、私が私自身の内声に従っているということなのだ」とあります。この主人公は、ストレートに自身の意思で行動するのではなく、自身が生み出したフィクショナルな存在を経由して、それらの存在に導かれるというかたちをとって行動に移す人物なのだ、そういう人物をこそ村上春樹は描きたかったのだ、という指摘です。でもそうであったとして、そのこと自体が異様です。いったいこの夏帆という人物はどういう存在なのか、彼女の主体性の欠如、もしくは迂遠な主体性の発露を、読み手はどうとらえればいいのでしょうか。わたしとしては、徹底的に主体性を欠いた存在という見立てのほうに、多少の面白味を感じます。

(8/2追記)人生における判断のすべてを生成AIにゆだねる現代人を描く寓話と読めば、幾分か興味深くなるかもしれませんし、退屈であることに変わりはないかもしれません。

『ジャグラー ニューヨーク25時』(ロバート・バトラー)

BDで。初見。1980年作品。ながらく観たかったこの映画をついに観ることができて、おおいに満足しています。中盤に登場する、街中でショットガンをぶっぱなしまくる警官が素晴らしかったです。

映像特典のインタヴューによると、当初の監督はシドニー・J・フューリーで、実際に冒頭1/3はシドニー・J・フューリーが演出したようですが、撮影中のジェームズ・ブローリンの怪我(足の骨折)をきっかけにプロデューサーと対立して降板、ロバート・バトラーが後任の監督として完成させた、という経緯のようです。