『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』(ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ)

DVDで。「音楽映画ミニ特集」の5本目です。
DVDについている小冊子に、ジャン=マリー・ストローブによる「バッハ映画」という文章が掲載されていて、そのなかでこんなことを言っています(訳・細川晋)。

ストラヴィンスキーはこう述べています。「私は音楽がそれ自体しか表現しえないことを知っている」。私の意見では、一本の映画もまた同じです。結局のところ……それが一本の映画であるということしかわかりません。一本の映画は、映像によって物語を語るためにあるのではありません。

ストローブ=ユイレ作品とは「一本の映画とは一本の映画である」という同語反復であり、というよりも実はすべての映画がそうなのだけれど、ストローブ=ユイレ作品はそれ以外の観方ができないようなやり方で構成されているのだと思います(どのようにすればそんなことが可能なのか、よくわからないのですが)。『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』でも、「私たちが提示するそれぞれの楽曲は現実にキャメラの前で演奏され、同時録音され、(中略)単一のショット内に撮影されるでしょう」と語られるように、わたしたちがそこに観るのはグスタフ・レオンハルトチェンバロを弾く姿であり、楽団員たちがそれぞれに楽器を演奏し歌を歌う姿であって、それ以外のなにものでもないのです。わたしたちは普段映画を観るときに、そこにうつっているものを観るだけでなく、さらにその向こうに別のものを観ており、うつっているものだけを純粋に観るのはとても困難なことなのだということを、彼らのフィルムは逆に照射しているように感じます。