『スクリーム3』(ウェス・クレイヴン)

DVDで。劇場公開時以来、2回目。
 
シリーズ全体に採用されるメタ構造、ジャンル映画によるジャンル映画の法則への自己言及*1入れ子構造といった側面は、それ自体決してこのシリーズだけにユニークな特徴とは言えませんし、2作目の「演劇」の主題や3作目の「映画製作」の主題も、その可能性が演出上において徹底的に追求されているとは言い難いわけです。例えば『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック)を参照した1作目の物語構造、およびその他の映画作品への目配せも、この3部作の真のおもしろさを成しているとは感じられません。
ウェス・クレイヴン作品において、限定された空間は拡張され、迷宮化します。その点で彼の演出は『鮮血の美学』以来一貫していると言えます。『鮮血の美学』において、突如としてラビリンスと化した森が逃げまどう少女たちをつかまえて逃がさず、逆に作品後半では彼女たちを殺した犯罪者集団が少女の父親の手によって家の圏域に捕らえられてしまう、それと同様に、『スクリーム』シリーズにおいてウェス・クレイヴンが試みているのは、脚本上与えられた舞台を空間的にいかに使い尽くすかということなのです。『壁の中に誰かがいる』や『エルム街の悪夢』においてそうであるように、ウェス・クレイヴン作品では「家」が特権的な舞台として採用され、そしてその「家」は外観から想像もつかないような無限の広がりを内に抱え持っています。『スクリーム3』の映画プロデューサー(ランス・ヘンリクセン)の屋敷、壁の裏側を走る通路や隠し部屋を有する怪しげな豪邸は、『壁の中に誰かがいる』の家を容易に連想させるでしょう。「家」は時として大学校舎や寄宿舎に(『スクリーム2』)、撮影所のスタジオやそこに組まれた映画のセットに(『スクリーム3』)置き換えられもしますが、事態は同様であり、その迷宮化する空間とそこに生まれる悪夢の時間が、これらの作品に独特の魅力を付与しているのです。『スクリーム2』で大学校舎内の音響スタジオをコートニー・コックスが息を殺して進む場面、あるいは『スクリーム3』でネーヴ・キャンベルがトイレからいきなり撮影スタジオに迷い込む場面の、あの宙吊りの時間=空間の艶かしさ!
電話がかけてきた相手との距離を無意識のうちに想像させることを逆手に取り、実はその相手がすぐ近くにいてナイフを振りかざしているという演出は、シリーズ全編を通して用いられるため、最後には電話がかかってくればその相手はすぐそばに潜んでいるに違いないとさえ思うようになるのですが、この距離の無化、フレディ・クルーガー的な殺害者の偏在性は、徹底されることでなお効果的であるのだと思います。

*1:法則の提示とその逸脱をいくら繰り返してみても、結局はジャンル映画の枠組みを補強することにしかなり得ませんし、そして製作者たちもそのことを十分に理解したうえで、こうした構造を採用しているわけです。