『ゾディアック』(デヴィッド・フィンチャー)

新宿ジョイシネマ2にて、2回目。今日は最初から最後までちゃんと観ることができました。
 
冒頭のシーン、ふたりの男女が街のネオンを避けるようにして木立の中の空き地に車をとめます。近くにいた若者たちも去っていき、すっかり人気のなくなったその暗がりに、一台の車がゆっくりと近づいてきて、ふたりの背後にぴたりと止まります。どうやら跡をつけてきたらしいその車のライトに背後から照らしだされて、ふたりの男女は、真っ暗なフロントガラスの奥からじっとこちらを見つめているであろう視線を感じ、おびえます。その後いったんはその場を去った車が再び戻ってきて、降り立った男が手にする懐中電灯の強い光が、もう一度ふたりの男女の背後から差し向けられることになるのですが、ここでわたしたちは、今から始まる映画が「映画」をめぐる映画であることを知るわけです。
 
このフィルムにおいて「ゾディアック」と名乗る連続殺人犯によるものとして直接的に描かれる3つの殺人は、すべて犯人が被害者の背後から襲い掛かるかたちで行われます。湖畔の男女は後ろ手に縛り上げられた後、ナイフで背中をめった刺しされますし*1、タクシー運転手はバックシートに座った犯人によってうなじに押し付けられた拳銃で射殺されてしまうのです。背後から前方に投射されるものとしての「映画」、これこそがこのフィルムの主題なのです。
 
それでは「ゾディアック」と名乗る連続殺人犯こそが「映画」だということになるのでしょうか。そうではなさそうです。「ゾディアック」とは、前方に殺人事件という像を投射するものであり、報道機関に幾度となく送りつけた手紙や暗号文によって「事件」を大きく拡大してみせる機械であり*2、自身が過去に愛したフィルム(あるいは小説)を再現する装置であり、つまりは映写機です。結果的に本筋とあまり関係のなさそうなもうひとりの容疑者がかつて映写技師であったという設定も、もちろんここに関わってきます。
 
ですから、この映画が2時間半にわたってえんえんと語っているのは、「映画」に魅了され、自身の生活を破滅させてまで「映画」にのめり込んでしまう映画狂たちの物語ということになるでしょう。痕跡を拾い集め、いろいろに解釈を繰り広げるという振る舞いは、まさしく今わたし自身がしていることでもあります。そしてもちろん、「ゾディアック」自身もまた、「映画」に強く深く魅了されているのです。
なぜ自分自身や家族を危険にさらしてまで「ゾディアック」の取材を続けるのかとクロエ・セヴィニーに問いつめられたジェイク・ギレンホールは、犯人を捜し出して「その眼をのぞき込みたい」というやみがたい欲求ゆえなのだと答えます。物語の最後、彼が犯人だと信じる人物のもとに行きその瞳をじっと見つめるとき、ひょっとすると主人公は「事件」の呪縛から解き放たれたと感じたのかもしれません。ですが当然ながら、映写機のレンズをのぞき込んだところで、なぜこうまで「映画」がわたしたちを捉えて放さないのか、その秘密を解き明かすこともできませんし、その呪縛が解けることもないでしょう。そしてまた、わたしたちは冒頭の暗がりへと戻っていき、恋人と並んで座り、フロントガラスの向こうに広がる暗闇に、眼差しを投げかけることになるでしょう。
 
 
などともっともらしいことを書きましたが、まあそんなことはどうでもよくて、普通におもしろい映画でした。緻密に作り込まれた音響設計がすばらしく、特に電話の音が絶妙でした。俳優で言えばマーク・ラファロが断然よかったのですが(特にあの声!)、『トップガン』(トニー・スコット)でグース役をやっていたアンソニー・エドワーズも渋くてかっこよかったですね。あの刑事ふたり組が映画をとても魅力的なものにしていたと思います。
 

*1:厳密に言えば、女性のほうは背中を数回刺された後に、身体を持ち上げられ腹部や胸部を突かれるのですが。

*2:「事件」を大きく見せるためには、時に自分以外の他人が起こした「事件」までわがものと詐称してみせさえします。