『ミリオンダラー・ベイビー』2回目

さすがに最初の時よりは落ち着いて観ることができた、と言いたいところですが、どうもあの最初のシーンのヒラリー・スワンクの見た目ショット(会場の上の方からリングを見下ろすショット)がいけないんだと思うんですけど、初っ端からやっぱり動揺してしまって、結局最後まで頭の中を整理して観ることはできませんでした。観終わるともう一回観たくなってしまうのですが、何度観ても納得いくことはないのかもしれません。それでもいくつか気になっていたことの確認はできました。

  • イーストウッド作品のトレードマークである空撮ショットは今回冒頭にはなく、中盤で英国チャンピオンとの試合会場を捉えるショットとして用いられるにとどまっている。そしてそのショットに続くシーンで、イーストウッドはスワンクに「モ・クシュラ」の刺繍入りガウンをプレゼントする。
  • 「モ・クシュラ」という言葉が初めて出てくるのはその少し前のシーンで、スワンクが試合で鼻を骨折し、とりあえず止血したものの再度の出血まで20秒の猶予しかないとイーストウッドに告げられたスワンクが20秒以内で必ず仕留めると言い、その言葉通りに相手をKOするのだが、それを眼にしたイーストウッドが思わず口にする言葉がこれである。
  • 背景と人の顔の半分を影で黒く塗りつぶす照明は見事に設計されていて(トム・スターンによる見事な撮影)、観客に予兆を感じさせる効果を生んでいると同時に、ある種の抽象性をもたらしてもいる。(そしてその「抽象性」は作品を過度に観念的にしていない。)
  • マイク・コルター(=ビッグ・ウィリー)がイーストウッドの家に来て、彼の元を去ると告げた翌日、ジムは前日までとうって変わって人気の全くない寂れた様子になっていて、ジェイ・バルチェル(=デンジャー)とスワンクのふたりだけが練習している。ここにもある種の抽象性が持ち込まれている。
  • スワンクが試合に出始めて以降、タイトルマッチまでの快進撃を、的確な省略で語るシーンの連続が実によくて、ゴングが鳴ってリングの中央に進むスワンクが画面から切れ、直後に人が倒れる音がして、イーストウッドがリングにイスを入れるというあたりは、定石でありながらも最近ではなかなか観ることのできないものだと思う。そしてこのテンポよくイスを入れる動きが、タイトルマッチでの悲劇を準備してしまうという周到な作劇。ところで細かいことだが、タイトルマッチでイスをリングに入れるのは、ベガスで臨時雇いしたセコンドであってイーストウッドではない。

デンジャーが「ユーレイ」と呼ばれるのは、彼がすでに引退してしまったチャンピオンをまだ現役と信じているその時代錯誤や、あの風貌から来るのだと思うんですが、隻眼の語り手フリーマンもそうだし、ラストで病院から立ち去ったままどこかへと消えてしまうイーストウッドも、ついに一度も画面に姿を見せることのないイーストウッドの娘「ケイティ」も、すべて亡霊的な存在ではないでしょうか。『トゥルー・クライム』ではイーストウッドは死者たちとの交信を通じて事件の真相に接近していき、台に横たわって筋肉弛緩剤を打たれる死刑囚を死の寸前に助け出したわけですが、新作で神父の言う通り「自分を見失って」しまった亡霊としてベッドに横たわったスワンクに注射を打つイーストウッドは、見方によっては死刑執行人だとも言えるでしょう。そして「亡霊的な死刑執行人」=イーストウッドという主題として『許されざる者』『ペイルライダー』『荒野のストレンジャー』へとつながってゆく…

(6/6追記)スワンクはイーストウッドにトレーナーとしてついてもらうことに執着します。この明確な理由を欠いた執着が、『ミリオンダラー・ベイビー』というフィルムのまがまがしさの基調をなしていることは間違いありません。いや、もちろん冒頭のシーンでビッグ・ウィリーに型破りでありながらも最善の指導をするイーストウッドの姿が示され、それを最初にも書いたあのスワンクの見た目ショットが捉えているわけですから、そこには一応の理由(「最高のトレイナーにつきたい」)があるわけですが、トレーナーになることを断り続けるイーストウッド(女性を傷つけることへの、これまた極端なまでの恐怖)に対して執拗に食い下がり諦めようとしない姿は、物語的な必然性を超えて、いささか異様だと言えないでしょうか。特定のトレイナーに固執することは、逆に彼女のボクシングへの道を閉ざす可能性だってあるわけです。だからといって不自然だとか説得力を欠くとか言いたいわけではなく、この極端な執着こそが重要なんだと思うのです。父子関係を迫る若き女性との間に、現実にはあるはずもない血のつながりを見いだしてしまう男の物語。イーストウッドの口から思わず漏れる「モ・クシュラ」のつぶやきは、血のつながりの発見であり、その言葉を刺繍したガウンは血のつながりの承認であるのでしょう。
 
今日は本当は清順も観る予定だったのですが、眼が痛くて1本観るのが精一杯の状態だったので、来週にしました。さすがに2週で打ち切りってことはないでしょうが、ちょっと不安だったりします。