『ミリオンダラー・ベイビー』・続き

散歩しながらも昨日の『ミリオンダラー・ベイビー』のことが頭から離れません。
この映画、イーストウッド作品としてはとにかく特異なものになっていると思うんです。例えばイーストウッド作品の冒頭にこれまで必ずと言っていいほど入っていた空撮ショットが、今回の作品には使われていません(少なくとも冒頭にはなかったと思います。ですよね?)。さらに、イーストウッド自身が役者として出る際に必ず彼の身体に刻まれる「傷」、あれが本作のイーストウッドからは免除されています。今回のイーストウッドは逆に傷を治すもの(カットマン)であり、「傷」はひたすらヒラリー・スワンクに担わされているのです。そういった違いの最たるものとしてモーガン・フリーマンの存在が挙げられます。単眼の「キャメラ」である語り手フリーマンのありようの異様さ。
イーストウッドが神父さんに三位一体について質問するところがあります。昨日も書きましたが、イーストウッド、スワンク、フリーマンの3人がこの三位一体に対応しているとして、それぞれ父・子・精霊であって、なおかつ「監督」「フィルム」「キャメラ」(あるいは「映写機」)であるということが、ひとまず言えると思います。しかし、イーストウッドは本当に「父なる神」なのか。彼の苦悩する姿は、ある意味ではイエスの姿に重ならないでしょうか。あるいはモーガン・フリーマンの偏在する視点は「父なる神」のものと言えないでしょうか。ここでは三角形が微妙にずらされているようなのです。イーストウッドが言葉の人(言葉に執着する人)であることもまた、ここでは重要であるような気もします。
デンジャーにまつわる挿話も、まだよく分かっていません。ラストで「幽霊」と言われもするこの男の存在はいったいなんなのか。
とにかく当分はこの映画のことが頭から離れないでしょう。来週末にもう一度観に行くつもりです。