『ザ・ファン』(トニー・スコット)

DVDで。オープニング・デイの場面には心底感嘆させられます。1.ロバート・デ・ニーロ親子を含む観客たちのグラウンドに向けられた視線、2.クライアントとのアポイントの時間を気にしてデ・ニーロが幾度も自分の腕時計に向ける視線、3.そんなデ・ニーロの様子を不安げにうかがう息子の視線、4.立ち上がって応援するデ・ニーロのせいで試合が見えないと怒鳴り声を上げる後ろの観客の視線とそれに逆ギレするデ・ニーロの視線、5.デ・ニーロの奇矯な振る舞いに向けられる老婦人の非難のこもった視線、6.グラウンド上のウェズリー・スナイプスがピッチャーやスタンドに投げかける視線、といった複数の視線を巧みに織り交ぜ、お守りのペンダントをなくして動揺しているスナイプスははたして難病の少年に約束したとおりホームランを打つことができるのか、デ・ニーロはクライアントとの約束の時間に間に合うのか(もちろん遅刻するわけですが)というサスペンスが、実に表情豊かに展開されるのです。ラストの舞台も球場で、『ラスト・ボーイスカウト』冒頭のアメフトのシーン同様大粒の雨が降りしきるなか、息子の命の代わりとしてデ・ニーロに要求されたホームランをなんとしてでも打とうと焦るスナイプスの前に、雨脚が強まっていつコールドゲームが告げられるかわからない状況や、勝負を避けて敬遠しようとする相手ピッチャーが立ちふさがり、サスペンスをいっそう盛り上げます。
セールスマンという職種によるものか、彼が扱うナイフという商品の特性からなのか、この映画のデ・ニーロはすっと相手の懐に入り込んでいくという「距離の無化」の技術を有していて、この作品の醸しだす恐ろしさはここに由来しています。ベニチオ・デル・トロを殺害するサウナの場面、溺れかけたウェズリー・スナイプスの息子を助けることでスナイプスの家に招き入れられる場面などにはそれが明確に表れていますし、最後の試合の場面でも彼はいつの間にか審判になりすまして試合の一部となっていて、ホームベースに滑り込んだスナイプスにアウトを告げたりするわけです。デ・ニーロは彼の側から一方的に見る存在であり、自らは他人の視線の対象となることはありません。しかしその一方でデ・ニーロは他人から承認されたい、人びとの注目を浴びたいと思っていて、ラストの球場ではその欲望が実現されるかたちで、警官隊の銃口キャメラのレンズを向けられ、巨大スクリーンに映し出されるわけで、このようにして視線の対象へと変貌させられることで、デ・ニーロは死を迎えることになるのです。
物語の終わり、捜査員たちの懐中電灯の光で照らし出されるリトルリーグ球場のロッカールームの闇とは、ベースボールというかたちで顕在化されたアメリカ合衆国オブセッションであり、そこに飾られたリトルリーグ時代の活躍を取り上げた新聞記事、少年時代のデ・ニーロの写真がネガに反転されるとき、一方でアメリカン・ドリームとしての真の栄光を勝ち得たメジャーリーグの4,000万ドルスラッガーウェズリー・スナイプスがいて、もう一方に父親の興した会社を馘になり、離婚した妻のもとにいる息子との面会も禁じられ、もう後は少年時代の輝かしき栄光の記憶にすがるほかないロバート・デ・ニーロがいるという、アメリカのポジとネガの二面性が示されています。この良質な視線のサスペンス劇は、同時に圧縮されたかたちで語られる「アメリカの物語」でもあるのです。
(12/7記)