内田樹『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』(晶文社)

映画の構造分析

映画の構造分析

内田樹(の本)は本当に退屈です。言っていることが間違っているとは思わないのですが、その「正しさ」からはなんの興奮も喚起されません。例えば『北北西に進路を取れ』(アルフレッド・ヒッチコック)においてケイリー・グラントをバス停で襲う飛行機や国連ビルで投げられるナイフは確かにいびつで「不自然」なのですが、それを「母なる超自我」と結びつけた時、とたんに映画は色あせた退屈なものに様変わりしてしまわないでしょうか。というよりも、あの「いびつさ」はそんな解釈では収まりのつかない、そこからはみ出してしまうようななにかであり、だからこそわたしたちはこの映画に強く惹きつけられ、繰り返し幾度も観てしまうのではないでしょうか。あるいは『エイリアン』(リドリー・スコット)はこの本でなされているような性的な読みにたやすく回収されてしまうが故に、『エイリアン2』(ジェームズ・キャメロン)ほどにはおもしろくないと言えないでしょうか(言い過ぎ?)。繰り返しますが内田樹の指摘は必ずしも間違ってはいないでしょうけれど、この種の映画の観方・語り方が、映画自体を、あるいはそれを観るわたしたちを、言葉の真の意味で根底から揺さぶるような運動や豊かさに導いてくれるとは到底思えないのです。
もちろんこの本の「まえがき」には「これは『現代思想の術語を駆使した映画批評の本』(そんなもの、私だって読みたくありません)ではなくて、『映画的知識を駆使した現代思想の入門書』なのです」と書かれており、あくまで主眼は映画批評ではなく現代思想の解説・紹介にこそあるのでしょうから、上記のような文句は的はずれなのかもしれません*1。しかし仮にそうだとしても、全く同じ理由で、「現代思想」がこれほど退屈なものであるなら、そんな「思想」について書かれた本なんて必要ないんじゃないかと思うわけです。
感じている違和感をうまく言葉にできないのがもどかしく、その一方で、わたし自身がこの「日記」で書いている映画の感想も同種の退屈さしか生みだしていないのではないかという反省や恐れもまたあるのですが。
付け加えると、わたしが読んだのは初版第一刷ですが、商品としていかがなものかと思うほど誤植やてにをはの間違いが多かったです。誰かこの「症候」をラカン理論で分析してあげてください。そういうの喜びそうですしね。

*1:ただし、「あとがき」には「はじめて単著の映画論を出して頂くことができて、私自身はたいへんに幸福な気分である」と書かれているのですが。