『ストレンジ・デイズ』(キャスリン・ビグロー)

DVDで。
 
この映画を観るのはこれが5度目か6度目ですが、観るたびごとにラストのキスシーンで涙が止まらなくなってしまいます。どうにも思い入れが強すぎて、うまく感想をまとめられる目算がありませんので、とりあえずここ数日考えていたことを箇条書きにしておきます。
 

  • レイフ・ファインズは映像を売り買いする商人であり、容易に映画作家を(あるいは映画プロデューサーを)連想させますが、そこで売り買いされる「映像」はいわゆる主観ショットであり、単一のキャメラによる長回しのそれは視線というものの存在を強調します。事実、この映画ではある人物が別の人物を見つめる視線が幾度も描かれるのですが、その視線が強調する対象(愛するもの)との距離が、ラストの口唇器の接触でゼロになるという物語だ、ととりあえず言うことはできないでしょうか。わたしはここでまたしても『東京上空いらっしゃいませ』(相米慎二)を想起しています。
  • 別の言い方をすれば、メディア(媒介)と無=媒介的接続という主題が、この作品の随所に顔を見せています。レイフ・ファインズ自身があるものと別のものを媒介する存在であり、売り買いされる映像を収めたディスクが、物語上の重要な要素ともなります。リムジンドライバーであるアンジェラ・バセットも、そう考えると媒介的存在です。他方でこの作品に登場する映像再生装置は、スクリーンに投影された像を離れた位置から見るという映画的な距離を無化して、脳に直接的に信号を送ることができるという設定です。
  • 落下に始まり落下に終わる(そう、この映画でも悪人は最後に高いところから落下するのです)という構造や物語形式(巻き込まれ型ハードボイルド)の古典性。そして、主人公たちがそれをめぐって争奪戦を演ずる「映像」、そこに映し出される「事件」が陰謀や巨悪の存在を示唆しているかのように見えるその「映像」の意味するものが、実は空虚で薄っぺらなものでしかなかったことがラストで明らかになるのですが、要するにそれは「マクガフィン」だということです。

 
(10/19記)