『ザ・フォッグ』(ルパート・ウェインライト)

DVDで。
 
迫り来る霧から逃れようとセルマ・ブレアの息子が海岸を疾走するところなど、ハッとさせられるショットもいくらかはあるのですが、ここまでひとつひとつのエピソードが孤立し、細部のイメージが分断されてしまっては、エモーションも広がりを持てずに縮小してしまうほかありません。
おそらく脚本がうまくいってないのでしょう。ヒロインが過去に起こった事件を幻視するというアイディアも、街に降りかかる災厄の説明としていささか安易ですし*1ビデオキャメラの使い方にもまるで創意が感じられません。主人公の青年が浮気しているという設定に至っては、いったい何がしたかったのか…。
 
ジョン・カーペンターによるオリジナル版は決してこうではなかったはずなのですが、もしかしたら記憶の中で美化されているだけなのでしょうか。
思うに、「霧が襲ってくる」というアイディアだけで成立しているかのように見えるオリジナル版も、当たり前といえば当たり前ですが、そのアイディア以外の部分、物語の展開や人物配置などの脚本上の設計に細心の工夫がなされているということなのでしょう。たとえばオリジナル版ではエイドリアン・バーボー灯台から放送しているラジオ番組が、街に住む登場人物たちとそこで起こるさまざまなエピソードを有機的に接続する役割を果たしていたはずで、それに対してリメイク版ではラジオ放送がたんなる一エピソードになってしまっていることも、物語世界が機能していないひとつの要因ではあるでしょう。古い灯台を利用したラジオ局という空間設計も魅力的なかたちでは活用されず、そもそも灯台に限らず物語の展開される空間が映画的な広がりを持つことがなく、たとえばオリジナル版の教会がリメイク版では博物館兼図書館に変わっているのですが、あそこも物語の最後の舞台となるまでの空間的な実体を獲得しておらず、それからあの神父さんも罪を一身に背負う人間としての存在感を最後まで手にいれることができず、どちらも空間的・人物的な説話論的役割を一手に担いきれなくて結局ほかの空間・人物と役割を分割させられる…
 
しかしそれ以上に残念なのが、DVDをプレイヤーにセットすると本編の前に強制的に予告編を10本以上観させられ(その間スキップも早送りもメニュー画面移動もできず、停止ボタンすら受け付けない)、さらにその1本目がこれから観ようとしている映画の予告であるという仕様です。
これはあんまりな仕打ちではないでしょうか。
今後この方式が定着したりしないことを願うばかりです。
(1/19記)

*1:ヒロインは過去の事件の犠牲者が転生したという設定になっています。