『ベオウルフ/呪われし勇者』(ロバート・ゼメキス)

新宿ジョイシネマ3にて、2回目。本日は3D版ではなく通常版(?)。DVDが出たらもう一回観たいです。
 
(1/21追記)
3D上映であるとかモーションキャプチャーによるアニメーションであるとかの目新しさに比べて、クライマックスの宙吊りと落下をめぐるサスペンスはかつて多くの映画が描いてきたものであり、いかにも古典的です。しかしこの映画においては、その古典性、古くささこそがおもしろいのです。確固たる構造を有する脚本とその構造を明瞭に視覚化する演出は実に堂々としており、有機的に絡み合って一本の「映画」を形作っています。
 
そのクライマックスシーンにおける、ドラゴンに宙吊りになったレイ・ウィンストンのイメージは、宙吊りと落下をめぐるサスペンスの見事な具象化の一例として、観るものの記憶に強くとどまることでしょう。その後レイ・ウィンストンは妻と愛人の落下を食い止めるべく、心臓を引きちぎって死に至らしめたドラゴンとともに海辺に落下するわけですが、この落下はもちろん、先王(アンソニー・ホプキンス)の落下と同じ軌跡を描いており、ここにおいて「落下」の主題と同時に、「反復」「再帰」の主題が明示されます。
 
そう、このフィルムは数多くの「反復」し「再帰」するものに満ちています。黄金の杯、異形の「息子」、ふたりの王によって過ち(=契約)は繰り返され、そのふたりともが海辺に落下し、寄せてはかえす波に身体を洗われ、海へと帰っていく…。すなわち(また始まったかと言われそうですが)「反復」し「再帰」するものとしての「映画」がここにおいて姿を現すわけです。
 
そして「反復」と「再帰」を促す装置であるところのアンジェリーナ・ジョリー演ずる母親とは、つまり「スクリーン」なのです。あの、水面からヌッと顔を出すアンジェリーナ・ジョリーのイメージに、わたしたちはフィルムが生起する場としての表面、視線の対象でありながら決してそれそのものは見られることのないという意味で不可視であり続ける表面=スクリーンが、可視化される瞬間を目撃します。そしてその滑らかな表面が食い破られ、そこからこちらに「映画」が迫ってくる、その感触こそが、このフィルムを特徴づけるものであり、この感触をより強く意識させるためにこそ、3Dという方法が採用されているのではないか、と感じられるのです。
 
もう一点気になっていることがあって、それはレイ・ウィンストンが語る水泳競争の挿話なのですが、これについてはもう一度観直してから考えたいと思います。