『ミリオンダラー・ベイビー』『エレニの旅』・続き

id:tidoさんの日記の『ミリオンダラー・ベイビー』に関する記述には教えられることが多くて、指摘されている点の鋭さもさることながら、作品の衝撃を受け止めつつも丁寧に分析されているその文章の落ち着きが好ましくて、翻って昨日一昨日と自分の書き散らしたものを読み返せば、落ち着きを失っているだけならまだしもだらしなく弛緩しきったさまに、本当に恥ずかしくなってしまいました。削除して一から書き直したいけれど、すでに書いてしまったことは仕方ないです。イーストウッドの映画はわたしの文章とはかけ離れたとんでもない作品ですので、未見の方はぜひ。
http://d.hatena.ne.jp/tido/20050528#p2
http://d.hatena.ne.jp/tido/20050530#p1
昨日書いたことを少し軌道修正。三位一体に絡めてクリント・イーストウッドヒラリー・スワンクモーガン・フリーマンを「父なる神」「子・イエス」「精霊」に対応させたのですが、わたしとしてはこれを「イーストウッドの神格化」という方向に持っていくつもりは全くなくて、ただ単に三位一体の三角形とイーストウッド、スワンク、フリーマンの三角形を照応させる意図が、監督イーストウッドにはあったのではないかという指摘から、「監督」「フィルム」「キャメラ」の三角形について論じたかったのです。しかし三位一体に関しては厳密な対応関係になっているわけでもなく、いずれにしてもわたしはキリスト教方面の知識をそれほど多く持ち合わせていないので、この点にはあまり深く拘泥しないことにします。
わたしの今現在の関心は以下の2点に絞られます。

2点目は1点目に含まれるわけですが、『ペイルライダー』や『許されざる者』の俳優イーストウッドが体現していた「亡霊」的な側面をモーガン・フリーマンが受け継いでいるとして、しかしイーストウッド自身もまたある種「亡霊」的だと思うのです。そのあたりを、次に観る時にもう少し落ち着いて確認したいと思います。
 
『エレニの旅』に関しては、『ミリオンダラー・ベイビー』を観た後ということでちょっと公平さを欠いた記述になってしまいましたが(別に公平である必要はないんだけど)、思い返してみればこれもやはりすごい映画で、個々の場面のすばらしさは並のものではありません。例えばテサロニキで、難民たちが劇場の桟敷席をひとつひとつ区切って住んでいるわけですが、そこに逃げ込んだエレニを追って養父スピロスがやって来る場面、スピロスの声が劇場内に響き渡るところは、この作品の中で一番好きなシーンです。スピロスがエレニとダンスを踊り、その直後床に横たわって死ぬ、あの祭りの場面も実にいいですし、「白布の丘」の造形も非常によくできていて(丘のような起伏に沿って難民たちの仮住まいが所狭しと建てられ、そこには酒場もあれば「音楽の溜り場」なる廃墟もあり、その向こうを鉄道が走り、さらにその先には真っ白なシーツが無数にひるがえり、そのシーツの列が果てたところから海が広がっている)、そういったすべてが「映画」的としか言いようのない感触をともなっているのです。ラスト、水没し骨組みだけ残してほとんど解体してしまった生家の二階の床板の上で息子の亡骸を抱えて慟哭するエレニの姿は、救いのない物語と相まって、ほとんどあの世の風景であるかのような荒涼とした寒々しさを感じさせもします。こういった場面には映画ならではの力がみなぎっていて、やはりアンゲロプロスはすごい、とただただ感嘆させられるばかりです。