『ランド・オブ・プレンティ』(ヴィム・ヴェンダース)

シネカノン有楽町にて。ものすごく感動的な映画で、観ていてとても心を動かされました。でもこの映画の美しさをうまく言葉に言い表す自信が、わたしにはありません。
後半伯父と姪の車での旅が描かれるかと思いきや、デス・ヴァレーからニューヨークに行く途中をすっ飛ばし、なおかつニューヨークの場面をあっけなく終わらせるというバランスの崩れた構成であるとか、ジョン・ディールのほとんど戯画的なまでにパラノイアックなアメリカ人、彼を責め苛むベトナム後遺症の、あの類型的でとことん薄っぺらな描写であるとか、あるいは単純に、熱感知キャメラで撮影されたファーストショットや、砂漠の向こうからゴルフクラブを手に歩いてくるジャージ姿のアラブ人といった細部の奇妙さ、いびつさが、わたしにはとても生々しいものに感じられます。でもだからと言って、いびつだからいいわけでもありません。いびつさはあくまで結果として出てきたものに過ぎないでしょう。
ここでのヴェンダースは、眼の前にあるものをじっと見ること、ただそれだけをやっているようにも思います。ラストのグラウンド・ゼロが、何の「迫ってくるもの」のない、ただの工事現場の光景であったように、それそのもの、見たままの風景をキャメラにおさめること。眼の前の人物や事態の奥・裏側にテロリストや陰謀といった意味を仮構するのではなく、見たままのものを見たままに捉えること。とはいえ、言うまでもなくここには別の意味と物語があるわけで、単純に見たままが映し出されるわけでもありません。
伯父と姪が出会うまでの前半で、普段映画の中で見るのとは違うロサンゼルスの風景、貧しく飢えて住むところもない路上生活者たちの姿が捉えられたとしても、貧困問題の解消がここで重要な問題として声高に叫ばれるわけではなく、教会と神にすがって生きている彼らの生が、ただ描かれていくのです。神にすがることが日常であるような人びとの姿、というかその日常そのものを、見る、ということです。
ジョン・ディールがテロリストのアジトだと思って突入した先にいるのが寝たきりの老婆である(ただのがらんどうの部屋や倉庫だったり、裕福な白人家庭の一家団欒の食卓だったりではなく)というところにも、うまく言えませんが感銘を受けました。部屋の壁に聖像を飾り、壊れたテレビで同じチャンネルをずっと見続けるこの老婆もまた、神にすがることが日常であるような人びとのひとりなのです。

……あの九月十一日のニューヨークの、晴天の中で爆裂する巨大ビルの映像がわたしたちを震撼させたとすれば、それは、事件の異様さである以前に、敢えて言うが、その恐ろしいまでの「無意味さ」であった。正確に言おう。おそらくはコックピット内で「アラーは偉大なり!」と叫びながら突っ込んで行った者たちの窮迫した「意味」への渇望と、経済グローバリゼーションの「意味の勝利」を「信じる」者たちとが空中で爆裂し、そしてその爆裂が、「世界の本質的な無意味」を文字通り具体的な姿で開示した、そのことにわたしたちは震撼させられたのである。
(中略)まさにあの「光景」においてわたしたちは「意味への意志」が「絶対的な無意味」と具体的に衝突し爆裂するのを見た/見ざるを得なかった……。あれは「近代の叫び」そのものの光景であり、そして、私たち自身の抑止されてきた不安と叫びの具象化そのものでもあった。そしてさらには、その叫びの無意味さそのものですらあった。
(中略)「無意味」は私たちの悲劇ではなく、猫の日向のような「所与」なのだ。
 
丹生谷貴志「サタニック・ヴァース」、新潮2002年2月号)

これは9.11とそれ以後の「アメリカ合衆国」、およびそこに住む人びとをめぐる映画ですし、さらには「アメリカ映画」をめぐる映画でもあります。しかし今日にあっては、それは同時に世界中のすべての国、すべての人びと、すべての「映画」をめぐる映画でもあるでしょう。主人公たちは物語の最後で、グラウンド・ゼロを見下ろして眼を閉じ、死者の声に耳を澄ませるのですが、本当はあの場所に行く必要は全然なくて、世界のどこであってもよかったはずで、でもしかし、だからこそラストはグラウンド・ゼロでなくてはならなかったのだ、そう思います。「猫の日向のような『所与』」としての「無意味」(字義通りの意味での)であるあの場所を、キャメラにおさめることが、やはりこの作品では必要だったのです。
単純に(画面には姿を見せることのない)妹から兄への謝罪と和解と希望の手紙に、グッと来たりもします。とにかくいい映画です。もう一度劇場で観ておきたいのですが、時間があるかどうか… 
(11/19記)