『スパイ・ゲーム』(トニー・スコット)

帰りの電車で少し寝て体力を回復、帰宅後DVDでこれを観ました。公開時以来2回目。
たとえばブラッド・ピットベイルートの酒場でキャサリン・マコーマックとちらりと交わす視線、まずはその簡潔なショットの連鎖で男女の出会いを描くトニー・スコットの手つきに、うっとりさせられます。トニー・スコットはこの作品において徹底して視線で物語を語るのです。
視線の劇だということは必然的に接触より距離が前景化されるということです。事実ロバート・レッドフォードが狙撃の名手=視線の人であったブラッド・ピットに教え込もうとするのは、敵や情報提供者への接近と接触をその特性とするスパイという職業における、距離の倫理です。しかし恋人に本名を告げ、情報提供者との関わりを通じて「接触」の人となるブラッド・ピットは、レッドフォードと袂を分かつわけですし、そこでできた「距離」が、物語を活気づけることにもなります。
では、ここで勝利するのは「視線」と「距離」なのでしょうか。「接触」は排除され、すべてが適切な「距離」をおいて安定的な関係を取り結び、再配置されるということなのでしょうか。ここでもうひとつ別の「視線」が登場します。CIA(=国家)の、遍在する監視の視線です。これはレッドフォードが体現するスパイの「視線」とは似て非なるものです。闘争は「距離」と「接触」の間ではなく、この二種類の「視線」の間で繰り広げられるのです。レッドフォードは作戦室を撮影するビデオキャメラの「視線」に晒され続けるなかで、私財をなげうってまでかつての部下とその恋人との「接触」を助けるわけで、やはりここでは「視線」の倫理が問題になっているのだと思います。その倫理を、「映画」を観ることの倫理と言い換えてしまっても、間違いとは言えないでしょう。
この作品には鏡が頻出します。ロバート・レッドフォードは自分にだけ周到に伏せられている作戦名を鏡の反射を通して知るわけですし、最初のほうでは彼が星条旗を収めたガラスケースを鏡代わりにしてネクタイを結び直す姿も描かれます。ピットが恋人からの別れの手紙(実際にはレッドフォードが用意させた偽の置手紙)を洗面所の鏡のうえに発見するのも偶然ではないでしょう。ロバート・レッドフォードブラッド・ピットをCIAにスカウトし、自身の持つスパイの技術を教え込むわけで、つまり多用される「鏡」はレッドフォードがピットを自分の「鏡像」に仕立て上げようとしていることの象徴なのだという見方もできるでしょうが、それよりもここでの鏡はあくまで視線の演出を立体的に構築するための有効な小道具として用いられているのです。
ラスト、中国のとある島全体の電気が切断され、アメリカ軍の兵士たちが暗闇に沈む監獄からブラッド・ピットキャサリン・マコーマックを救出する場面、レッドフォードの用意した「作戦」が円滑・簡潔に機能するさまは、何とも言えず美しいです。
(11/23記)