『ザスーラ』(ジョン・ファヴロー)

新宿ミラノ座にて。脚本をデヴィッド・コープが書き、ティム・ロビンスが出ていて、宇宙人が家の地下室を歩き回るとくれば、『宇宙戦争』(スティーヴン・スピルバーグ)を想起しないわけにはいきません。
 
…と書いて数日寝かせてみたものの、これ以上話が広がりそうにありません。残念。確かにゲームが進むにつれて家屋がどんどん破壊され、徐々に廃墟の様相を呈し始めるあたりに『宇宙戦争』らしさを見て取ることはできるのですが、やはりこれは脚本家によるちょっとした目配せに過ぎないのかもしれません。
ジュマンジ』もそうでしたが、ゲームの進行がそのまま映画(物語)の進行につながり、ゴールにたどり着いたところでエンドマークを迎えるこの種の物語を語るに際しては、いかにしてスタートからゴールまでのあいだを引き延ばし、2時間弱の上映時間を生み出すかが主要な関心事となるわけで*1、それ故作品内にはゲームの円滑な進行を妨げる数多くの障害が設けられることになります。中でもゲームの続行が永遠に不可能となるような決定的な障害(ゲーム機器の廃棄、プレイヤーのひとりによるゲーム継続の拒絶など)が幾度も主人公たちを襲い、日常への復帰の道が永久に閉ざされてしまうかもしれないというサスペンスをもたらします。ゾーガン星人に奪われたゲームのボードを取り戻すために少年が宇宙船内部へと潜入するところなど、それなりに楽しく観ることはできるのですが、いかんせんしょっぱなから家ごと宇宙に放り出され、ほぼ全編にわたって家の中だけでドラマが進行するため、『ジュマンジ』に比べていくらか面白味に欠けることは否定できません。ゲームを進めるにつれてカオスが世界に広がりだしていくという『ジュマンジ』のあの取り返しのつかない感じが、『ザスーラ』にあっては事態が主人公たちの身の上と一軒の家屋に限定されていることで、いくらか薄まっているように感じられるのです。
(1/12加筆修正)

*1:と同時に、言うまでもありませんが、主人公たちがゲームを放棄せずにゴールを目指す内的必然性が設定されなければなりません。