『さよなら、さよならハリウッド』

恵比寿ガーデンシネマで『さよなら、さよならハリウッド』(ウディ・アレン)を観ました。ウディ・アレンの大ファンというわけではないのだけれど、ここ数年のものはなぜか必ず観に行っていて、それなりに楽しんで帰ってくるんですが、かといってウディ・アレンの新作が公開されると聞くとソワソワし始めるということも、特にありません。1935年生まれで現在69歳になるウディ・アレンゴダールイーストウッド(ともに1930年生まれ)と同世代の映画作家ですが、ふたりに比べるといささか見劣りするのは否定できません。それでも一年に一本のペースを崩すことなく撮り続けているだけあって、その洗練された語り口は見事なものです。
イーストウッドの場合と同じく、ウディ・アレンにもまた、自身が出演する作品と演出に専念する作品があって、わたしとしてはウディ・アレンが出てくる作品の方が好きなのですが、これはやっぱり彼の容姿(背が低くて近眼でハゲてる)と、あのどもりながらまくし立てるしゃべり方が持つ、独特のおかしさゆえ、なのでしょう。アレンが映画監督を演ずる『さよなら、さよならハリウッド』でも別れた妻で新作映画のプロデューサーでもあるティア・レオーニとバーで打ち合わせをする場面で、私情を挟まずプロフェッショナルとして仕事の話をしようと言いながらも、唐突に我を忘れて捨てられた怨みをぶちまけだし、いったん自分を取り戻して仕事の話に戻るのですがまたすぐに「あの時ヤツと電話してただろう!」とか言い始める、あの発作的なしゃべりがとにかく笑えるのです。こうしたシーンにも、脚本構成の熟練ぶりがうかがわれます。
突然失明してしまった映画監督が、元妻たちの協力を得ながら、自身ではセットも演技もキャメラ位置もまったく見ないまま撮り上げた映画が、アメリカではコケたもののフランスで大当たりして、元妻ともよりを戻し、巨匠として迎えてくれるフランスにふたりで旅立つというご都合主義的ハッピーエンドが、原題(“Hollywood Ending”)にかけてあって、珍妙な映画を芸術だと言ってもてはやしたがるフランスのスノビズムに対する皮肉もこめられている、などということには、あんまり真面目に付き合う気にはなれませんし、「眼が見えない映画監督」という設定が「映画」そのものを致命的な危機に陥れるような事態にもならないわけですが(逆にそこがいいところでもあるけれど)、ウェルメイドな映画として、十分楽しめるものになっていると思います。