『宇宙戦争』(スティーヴン・スピルバーグ)

新宿アカデミーにて。
前々からすごく楽しみにしていたのですが、実際その期待以上に面白かったです。スピルバーグという人はとにかくいびつで過剰なものを抱え込んでいて、特にここ数年の作品はどれもへんてこなものばかりですけど、新作も負けず劣らず奇妙な映画でした。まずあの最初と最後のとってつけたようなナレーション、あれはいったい何なのか。しかもモーガン・フリーマンの声なわけです。『ミリオンダラー・ベイビー』への目配せ? トライポッド出現までの展開は穏やかならぬ雰囲気に満ちていて(キャッチボールのシーンなど)、それにしてもトム・クルーズ演ずる主人公がクレーン操縦の卓越した技術を持っているという設定や、雷で道路の真ん中にあいた穴の縁からトム・クルーズが拾う石(冷たいとか言っていましたよね)なんかは結局最後まで使われません。石に宇宙人の秘密が隠されているわけでもなく、クレーン操縦技術を活かした何かでトム・クルーズがトライポッドとガチで闘うといった展開も全くなし。クレーンを操縦するトム・クルーズとトライポッドを操縦する宇宙人が対比されているのかとも思ったんですけど、だからなんなんだ。宇宙人たちの意図もよくわかりません。怪光線で人を片っ端から灰にしたかと思えば(あれがまたえらく能率悪いんですよね)カゴに詰めてはひとりひとり取り出して血を吸ってみせたりするわけで、殲滅するのか血を吸うのかどっちかにすればいいものを、と余計な心配をさせられもします。そして血は燃料なのか食料なのかも不明。テレビクルーが示してみせる宇宙人の映像も実にいかがわしい(『サイン』でホアキン・フェニックスが観るテレビ映像の宇宙人並みにいかがわしい)。そしてティム・ロビンス。あの役柄はいったいなんなのか。ダコタ・ファニング狙いのロリコンオヤジ? そして、これらは冗談でもなんでもなく、スピルバーグトム・クルーズも実に真剣であり、本気で作ってるんです。ヤヌス・カミンスキーによる映像を観てもそれはよくわかります。あの暗さ、あのまがまがしさ。
ところで近年のスピルバーグ作品では「父と子」の主題などとともに、「プログラムの完遂」という主題が繰り返されます。「プログラム」が正確に遂行されればされるほど、物語が脱臼し失調して、徐々に荒唐無稽の様相すら帯びてくるのです。一番わかりやすいのは『A.I.』で、ハーレイ・ジョエル・オスメントにインプットされた「愛」という「プログラム」が妥協なく正確に徹底的に作動するさまが描かれていたわけですが、『宇宙戦争』にあっても複数の「プログラム」が作動して徹底されていきます。例えば(そこに乗る宇宙人の意志といったものをあえて無視するならば)トライポッドの「人類殺戮プログラム」の徹底的遂行の描写に、この映画の大半は費やされているわけです。そういえば地中に何万年も前から埋められていたというトライポッドとはウイルスのようなものなのかもしれないなと今思いついたのですが、宇宙人(とトライポッド)は地球の水やなんかに含まれる微生物のせいで死んでしまったとナレーションで語られるわけで、ここでも人間の範疇を超えた「プログラム」の作動ぶりが垣間見られます(この部分は『ジュラシック・パーク』のラスト、ヴェルキラプトルがT.REXに食べられてしまうという人間不在の解決と同型ですね。あの映画ではヴェルキラプトル自体が「プログラム」の正確な作動ぶりをみせていました)。しかし、『宇宙戦争』で最も徹底した「プログラム」の作動を示す個体とは、もちろんトム・クルーズであります。「子供を守る」「何かあったら母親(ミランダ・オットー)に連絡する」を忠実に遂行するトム・クルーズは、いろいろ考えたり悩んだりしているかに見えて、実は全く思い悩むことなく、ボストンにいるはずの元妻のもとへ子供を送り届けることだけに集中します。逡巡をみせるのは息子と生き別れるシーンで、息子と娘のどちらを選ぶかを迫られるところだけであり、それ以外ではとにかくボストンへ向かう運動をやめることはありません。その徹底ぶりは『A.I.』のハーレイ・ジョエル・オスメントにまさるとも劣らぬものです。
9.11以後を明確に打ち出しているこの映画(トム・クルーズが頭からかぶる煤塵)、あいかわらずのいびつさでスピルバーグ的な主題が集約的に展開される、とても真面目な、面白い映画でした。