『ミュンヘン』(スティーヴン・スピルバーグ)

新宿ピカデリー2にて。とてもおもしろい映画で、誤解を恐れずに言うならスピルバーグはやっぱりどこかおかしな人なのでした。もう一度観る予定なのですが、とりあえず思いついたことをメモしておきます。
父親の主題はこのフィルムにも引き継がれています。画面には登場しないエリック・バナの父親は祖国の英雄として語られていますが、この父親とバナの関係は決して幸福なものではないことが示唆されます。他方でこの実の父親のかわりにスクリーンに姿を現すのはミシェル・ロンズデール演ずるフランス人組織のボスであり、「パパ」と呼ばれもするこの擬似的な父親とのあいだに、あり得たかもしれない父親との幸福な関係が一瞬実現されたかに見えますが、それもまた一時的なものに過ぎません。
他方でこれは、もうひとつのスピルバーグ的主題、「家に帰ること/帰れないこと」をめぐる映画でもあります。バナは物語の最後に妻と娘の住む「家」homeに帰るのですが、「母国」としてのhomeに帰ることはできません。『宇宙戦争』のラスト、娘を送り届けるという「任務」を終えたトム・クルーズが家に入ることなく、戸口に立ちつくす姿が思い出されます。システムキッチンのショウウィンドウを見つめるバナにとって、料理という特技もまた、homeに対するオブセッションを意味しています。
この映画は、暗殺者としての訓練を受けたわけでもない5人の男たちが次々と標的を殺していく、その暗殺のプログラムが起動され、仕事を果たしていく過程をこそ描いているのだと言えるでしょう。『A.I.』のハーレイ・ジョエル・オスメントに植え付けられた「母への愛」のプログラムが、ほとんど非人間的なまでに機能するさまを描いていたように、スピルバーグを魅了しているのがこうした非人間的なプログラムの(円滑な)作動ぶりにあることは間違いありません。あるいは『ジュラシック・パーク』『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』の恐竜たちが見せる、プログラムの精緻な作動ぶりを思い出してみるのもいいでしょう。しかし『ミュンヘン』にあって、マチュー・カソヴィッツの作る爆弾がことごとく適正に機能しないこと(ある時は弱すぎ、次の時は強力すぎ、爆発しないことすらある)、あるいは標的を殺す際に見せるもたつきや不手際は、このプログラムが必ずしも円滑に機能していないことを意味しているようにも見えます。
エリック・バナは自分が見ていないはずの映像に囚われています。ミュンヘンの惨劇を想起する3つの回想シーンは、『プライベート・ライアン』のあのねじれた回想のように、誰の視点から見られた映像なのか判然としないのですが*1、しかしそのイメージに主人公は強烈に支配されています。性交のさなかに、人質たちが殺されるさまをありありと「見て」しまうエリック・バナのまぶたを、奥さん(アイェレット・ゾラー)が手のひらで閉じさせようとするところは、『宇宙戦争』でトム・クルーズが川を流れるおびただしい死体を眼にしたダコタ・ファニングの瞳を手のひらで覆う場面を連想させられます。
ところでわたしはハンスを演じているのがハンス・ツィッシュラーだということに観ているあいだじゅう全く気づいていなくて、エンド・クレジットで名前を見つけてものすごくビックリしてしまいました。

*1:ありうべき解釈としては、テレビニュースの映像からバナが想像力で補強した映像、ということになるのでしょうけれど。