『ミュンヘン』続き

昨日の感想に書きそびれたことがいくつかあって、スパイ映画やノワールものの感触についてだとか、スピルバーグ作品では珍しい(と思う)性交の描写だとか、ゴルダ・メイア首相役の女優のすばらしさだとか、家に帰ったら書き加えようと仕事中もいろいろ考えていたところ、今日発売の文學界2006年3月号の阿部和重中原昌也「シネマの記憶喪失」に蓮實重彦青山真治が参加して4人で『ミュンヘン』を論じていて、そこでこうしたテーマがとりあげられておりました。蓮實さんがスピルバーグのフィルムを肯定的に語っていることにまずは驚かされ、続いて青山真治監督の「『宇宙戦争』の続編」としての『ミュンヘン』という指摘にハッとさせられたのですが、それ以上に重要な点として、近年のスピルバーグ作品における女性という視点が、わたしの昨日の感想からは決定的に抜け落ちていたことに気づかされたのでした。
昨日わたしは「父親」の主題については言及しましたが、この作品には「母親」の主題もまた、色濃く示されています。エリック・バナの父親は最後まで姿を見せませんが、母親は確か二度ほど現れてエリック・バナと言葉を交わします。ゴルダ・メイア首相、そして作品冒頭で妊婦として登場するバナの妻もまた、「母性」を体現する存在です。物語の終わり近くの性交場面でバナのカッと見開いた瞳を手のひらで覆おうとする奥さんの行為には、『宇宙戦争』と同時に『ミスティック・リバー』(クリント・イーストウッド)のラストにおけるローラ・リニーを、(阿部和重同様に)わたしもまた想起したのですが、「母親」「母性」の庇護と抑圧の主題は、前作『宇宙戦争』にも確かにあったし、『A.I.』の少年アンドロイドを呪縛する「母親への愛」にまでさかのぼることも可能でしょう。
それにしても座談会でも指摘のあった女性の下腹部の描写、妊娠中の妻との性交場面で強調される大きなお腹と、作品後半のオランダ人の女殺し屋が下腹部をさらけ出して死ぬ場面(エリック・バナがいったん洋服で覆い隠すのですが、ハンス・ツィッシュラーがそれをわざわざもう一度はだける)は、どう見たらいいのでしょうか。つまらないことを言えば「母性」の抑圧に対する男(たち)の無駄なあがきというような話になってしまいそうですけれど、どうもそんなことで収まりがつかないような異様さが感じられもします。
もうひとつ、女殺し屋殺害の場面によく示されているように*1、この映画のおもしろさのひとつは暗殺者たちのもたつき、不手際にあります。昨日も書いたように、マチュー・カソヴィッツが作る爆弾はどれもこれも適切な(的確な)効果を示さないわけですし*2、最初の暗殺でも銃を抜いて撃ち殺すのにちょっともたつくわけですが、そこが実におもしろいのです。何人殺しても彼らはちっとも「上手く」ならないわけですが、それでも確実に標的を殺していく、そして「国家」の側はその不手際や下手さをすべて織り込み済みで、彼ら暗殺の素人たちに仕事をさせているわけです。そういう意味では、「もたつき」と「不手際」こそがここでは着実に機能しているのでした。
そういえば、パレスチナの大物指導者をスペインの別荘地まで追いかけて結局狙撃に失敗する終盤のシーンで、エリック・バナダニエル・クレイグは柵を乗り越えて逃げていくわけですが、作品冒頭の「黒い九月」のメンバーたちがオリンピック選手の宿泊施設に侵入する際に入り口の柵を乗り越えるところに重なって見えるのも、もちろん意図的なのでしょう。
ということで、『ミュンヘン』はやっぱりおもしろくて異様でへんてこな映画なのです。

*1:パイプ式の銃に弾を詰め直すのにもたついて、弾を取り落としたりするのです。

*2:皮肉なことに、爆弾はマチュー・カソヴィッツ自身を爆殺する際には実に精妙に機能するのですが。