『インベージョン』(オリヴァー・ヒルシュビーゲル)

吉祥寺バウスシアター1にて。『宇宙戦争』(スティーヴン・スピルバーグ)が意識されていることは間違いありません。地下室のシーンでニコール・キッドマンが子供を物陰に隠すところを観てそう感じたのですが*1、ヘリングさんのご指摘にもあるとおり、どちらも古典SF映画のリメイクであること、かたや父と娘の、かたや母と息子の物語であることからも、このフィルムが『宇宙戦争』への応答として製作されたことは明らかです(不覚にもわたしはご指摘を拝見するまでこれらの一致と対照に気づいておりませんでした)。でも『デス・プルーフ』(クエンティン・タランティーノ)に捧げられた「批評」というのが、わたしにはよくわかりませんでした。どこのことをおっしゃっているのでしょうか…差し支えなければご教示くださいませ。
 
(10/22追記)
「古典SF映画のリメイク」と書きましたが、実際のところこれはゾンビ映画と言うのが正しいでしょう。宇宙人による侵略の話と言うよりも、(病原菌への)感染の恐怖が物語の基調をなしているように感じられます*2
感染者たちは逃げる非感染者を追うときこそ走りますが、普段は感情を面に表さず、緩慢な動きで街中を歩き回ります。ニコール・キッドマンが彼ら感染者たちをさほどのためらいもなく次々に殺してしまうことや、彼女の息子が殺人行為を目の当たりにして、母親に対し恐怖心を抱いたり強い精神的ショックを受けたりしているようには見受けられないことも、『インベージョン』がゾンビ映画の一変奏であると考えれば理解できそうです*3
 
もうひとつ重要な要素として「偽装」の主題があります。感情を面に出さないこと、汗をかかないことなど、感染者に見破られないすべをニコール・キッドマンがほかの非感染者から教わる場面、列車に乗り込んだ彼女が感染者たちに監視されるなか、彼らの排泄する粘膜のようなものを身体に付着させて感染者を装うシーン、街中を安全に移動するためにダニエル・クレイグが警察官の制服を身にまとってパトカーを運転するところなど、「偽装」がこのフィルムの登場人物たちの行動を規定しています。感染者たちも感染する以前と変わらぬ姿で非感染者と接触することを考え合わせれば、この映画に出てくる人びとは、感染者も非感染者もみな「偽装」しているとも言えるわけです。
 
(10/24追記)
>ヘリング様
ご回答ありがとうございます! なるほど、言われてみればあのシーンは『デス・プルーフ』ですね。車の屋根やボンネットからひとり、ふたりと感染者たちが振り落とされ、人数が少しずつ減っていくという描写の妙な律儀さ、丁寧さが印象的でした。ゾンビ映画という側面も考え合わせると、『グラインドハウス』2作品両方に対する応答とも言えそうです。

*1:ただし、『宇宙戦争』のダコタ・ファニングが父親であるトム・クルーズの殺人を目撃しないのに対して、『インベージョン』のニコール・キッドマンは息子の見ている前で前夫を殺してしまいます。またこの少年は女性が車にはねられる瞬間を目撃したりもします。『インベージョン』では「見る」ことが選択的に描かれていると言えますが、しかしそれらを眼にした少年自身は、ショッキングな出来事から受ける衝撃に動揺したり、心に深い傷を負ったりしているようには見えません。ここのところはもう少し考えてみる必要がありそうです。

*2:映画の終盤、感染者たちに占拠された街からニコール・キッドマン親子がヘリコプターで逃げる場面で、『ゾンビ』(ジョージ・A・ロメロ)のラストを思い出した人は多いはずです。

*3:ゾンビ映画においても、ゾンビとなった存在を殺したことで、人間たちが良心の呵責にとらわれることは(ほとんど)ありません。わたしの記憶では、阿部和重が『ゾンビ』を論じた文章のなかで、「ゾンビ」の存在が暴力シーンをフィルムに導入するためのある種の「口実」として機能していることを指摘していたはずです。