『TAKESHIS'』(北野武)2回目

新宿ピカデリー3にて。前述のようにひどい体調で、先日の二の舞になりそうだったので、今日はやめようかと劇場前でさんざん悩んだ末に結局入ったのですが、結果的には前回よりも集中して楽しく観ることができました。
前回は「おもしろかったけれど、でもこれいったい何の映画なんだろう…」というところで引っかかってしまい、集中力もなかったので今ひとつちゃんと考えられずにいたのですが、あらためて観直してみて、むしろあまりいろいろ考えずに眼の前のひとつひとつのショットやシーンの魅力を堪能するというのがこの映画の一番の楽しみ方なのではないかという気がしました。なんて書くとバカみたいですが、そうかといって「監督北野武と俳優ビートたけし」とか「夢と現実」とか「赤と青」とか「生と死」とか「誇張され戯画化された自画像と可能性としてのもうひとりの自分」というようなことで、ことさら目新しいことが言われているわけでもないですし、自作のショットやシーンの引用もそれ自体がおもしろいわけではないでしょう。
前回観た時は、「ふたりのたけし」や「夢」という装置ゆえに、どうしても意味に回収されてしまうようなところがあるように思われて、そこが『みんな〜やってるか!』と比べた時に突き抜け切れていないように感じられもしたのですが、律儀に(夢の)カッコを閉じる手つきには「ハイ、ここまで夢の中の人の夢、でここからは夢の中の人の現実ね」とでもいうような、あくまで「夢」というのがとりあえず便宜的に選択された設定でしかないようなところもあり、そういう点では意味や深層を読み込むのではなく、あくまで平板に観ることが必要なのだと思います。つまりは「現実の北野武」と「夢のなかに出てくる可能性としての北野武」のふたりがいるのではなく、あくまで画面に映っているのは北野武ビートたけしただひとりだということで、そのことが貧しさを意味するのではなく、逆にそう観ることで画面内の諸要素が豊かな表情を顕わにするのです。例えばあの美輪明宏THE STRiPESらのパフォーマンスが続くクラブのシーンだとか、アパートの廊下の京野ことみ寺島進の漫才(「二人組」の主題)だとか、大量の死体の間を縫って進むタクシーを望遠気味に捉えたフィックスのショットだとか、銀行強盗のシーンだとか、コンビニに血まみれのやくざが転がり込んでくるところの反復だとか、河原の銃撃戦だとか、オーディションの後で誰もいなくなった外の椅子に座るたけしだとか、まあとにかく魅力的な細部には事欠かないわけで、それをひたすら観て楽しめばいいんだと思います。