『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3』(ロバート・ゼメキス)

DVDで。『PATR2』と『PART3』を観直すのは劇場公開時以来初めてかもしれません。『PATR2』が1989年公開、『PART3』が1990年公開とのことなので、18〜19年ぶりということになります。
この3部作においては、水平方向の運動が非常に重要な物語的要素としてあり、ある一定速度以上の滑走を得ることができるかどうかというサスペンスが物語を駆動するわけですが、同時にそこにはしばしば垂直方向の運動が導入され、そのふたつの運動の交差がアクションの単調化を防ぐことに貢献しています。1作目で言えばデロリアンの滑走と時計台の高さ(落雷)がまさにそれであり*1、2作目でも、トーマス・F・ウィルソンに水平軸で追い詰められたマイケル・J・フォックスが、クリストファー・ロイドの運転するデロリアンの助けで垂直軸に逃れる場面がふたつあって、それぞれ中盤と終盤のクライマックスを形作っています。その2作目、雷の直撃により中空に浮かぶデロリアンが消失し、飾り付けの紐がヒラヒラと「落下」してくるのを見て呆然と立ちすくむマイケル・J・フォックスの背後に、1台の車がすっと近づいてくるところもまた、水平動と垂直動の見事な組み合わせであり、演出の緩急の巧みさも含めて、シリーズ中でももっとも好きな場面です。3作目の終盤、爆走する蒸気機関車デロリアンを押させる場面で、線路の途切れるポイントまでに時間移動に必要な速度を得ることができるか否かというサスペンスに、メアリー・スティーンバージェンクリストファー・ロイドの「落下」をめぐるサスペンス(宙吊り)が組み合わされているのを見ることができます。と同時に、このふたりの出会いもまた、メアリー・スティーンバージェンの「落下」をクリストファー・ロイドが阻止することにより実現するのです*2
もうひとつ、この3本のフィルムは、装置の円滑な作動を描いています。いやもちろん、機械が円滑に動かないからこそ、さまざまなドラマが生まれるわけなのですが、模型によって説明されるいささか危うげな理論に基づいて、実験らしき実験もせずにぶっつけ本番で、装置が正しく機能するさまを眼にするとき、やはりそこには「映画的」な喜びが感じられるわけですし、ハワード・ホークスのいくつかの映画を思い出すまでもなく、映画はこの種の装置の機能ぶりを数多く描いてきたのであり、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3部作もまた、いささか見劣りするとはいえ、その系譜に連なる作品と言えるのだと思います。(2/12加筆修正)
 
上に取り上げたふたつの主題、「水平方向の運動」と「装置の円滑な作動」に関連しますが、この3本の作品が「乗り物」についての映画であることも、ここで指摘しておくべきでしょう。タイムマシーンに改造されたデロリアンを筆頭に複数の自動車が登場しますし、スケートボードや馬、蒸気機関車も含めて、登場人物たちは実に多くの「乗り物」を操ります。そして1作目のクリスピン・グローヴァーがトーマス・F・ウィルソンを殴る場面なども含めて、主要なドラマはこれら「乗り物」たちを舞台として、あるいは媒介として生起するわけです。さらに言えば、映画はその誕生以来、「乗り物」を執拗に描いてきたのでした。
と同時に、映画において水平方向の「速度」が非常に表現しづらいものであるということにもまた、思い至らざるを得ません。この3部作においても、時間移動に要求される速度は登場人物たちの口から幾度となく数値のかたちで説明されますし、速度計のデジタル表示によっても表現されます。走っている車をただ撮るだけでは、運動も速度も感じられません。映画的な運動とは、もっと別のかたちで実現されるものなのです。水平方向の運動が描かれる場面でしばしば垂直方向の運動が組み合わされるのは、アクションの単調化を防ぐことのほかに、この速度表現の難しさが理由でもあるはずです。(2/13追記)

*1:さらに言えば、マイケル・J・フォックスが過去の母親と出会うきっかけとなったのが、クリスピン・グローヴァーの「落下」とそこに走ってきた祖父の車の交錯なのです。

*2:3作目でもうひとつ付け加えるなら、マイケル・J・フォックスが馬につながれ地面を引きずり回されたあげく、首に縄を巻き付けられて宙に吊り上げられ、そのまま縊死する寸前のところでクリストファー・ロイドに助けられる場面もまた、水平+垂直の運動となっています。