『運び屋』(クリント・イーストウッド)

立川シネマシティにて。

このフィルムには映画館を想起させるシーンが5つあります。冒頭の百合の品評会、孫娘の結婚パーティ、退役軍人会のパーティ、妻の葬儀、ラストの法廷。最初と最後は自分自身が見られる側にいて、逆に他の3つは自身を客席側に置き、加えてその場を盛り立てる役割、いわば演出を手がけてもいます(奥さんの葬式でも、花をありがとうと娘から感謝の言葉をかけられます)。これをもって自身のフィルモグラフィ(特に『グラン・トリノ』以降?)の総括などと言うのはいささか軽薄に過ぎるかもしれませんが、これが映画をめぐる映画であることは疑いようのないことです。そしてそのなかで、イーストウッドは自分自身をある種の人々と並んで立たせる、並んで座らせることに努力を傾けているように見えます。並んで視線を前方に投げかけるという映画的な姿勢こそが、厳しい現実を生き延びるうえでの倫理であるかのようです。

老いによりことさら緩慢になった足運び、荷物を積み込むガレージの薄暗さ(しかし、回数を重ねると次第に明るくなる…)、そしてあのハイウェイの視線の集中と、逆光のなかでの会話。今この時にこそ実現しえなかったイーストウッドの映画を同時代的に観ることができる幸福と、その一方で身を切られるような厳しさと悲しさがあります。