『ヴィレッジ』

ゴールデンウィーク最終日はジャームッシュの新作を観に行くつもりでいたのですが、旅行の疲れが全然抜けていなくて、結局一日中家で寝てました。こんな調子で明日の仕事、大丈夫なんでしょうか。それにしても、ジャームッシュアンゲロプロスウディ・アレンウェス・アンダーソンも来週末以降に持ち越しです。月末からはイーストウッドも公開されるというのに。全部観られるか心配。
 
今日はDVDで『ヴィレッジ』(M.ナイト・シャマラン)を観ました。
シャマランの映画は『シックス・センス』以降、全部劇場で観ていたのですが、この最新作は観逃していたのです。友人のTくんからはすごくいいと聞かされていたので期待していまして、事実とても面白かったのですが、予告編を観たり雑誌の特集記事を読んだりして想像していた内容とはちょっと違っていました。
 
これは『トゥルーマン・ショー』(ピーター・ウィアー)と同型の物語ですね。人為的に作り出された閉鎖空間で、外部の世界を知らずに暮らす人びとの物語。違いは『トゥルーマン・ショー』ではテレビの観客という外部の視線がありましたが、『ヴィレッジ』の村は外部の視線に晒されることがなく、むしろ外部の人びとの関心を喚起しないように配慮されている、ということでしょうか。また、外部の世界の存在を知った主人公が、最後にとる行動も異なります。『トゥルーマン・ショー』のジム・キャリーが最後に外部の世界に出ることを選択するのに対し、『ヴィレッジ』のブライス・ダラス・ハワードは外部から村に戻ってくる。彼女の帰還はエイドリアン・ブロディの死とあわせて、村とその成立条件を補強する要素として組織され、これからも村が維持されることがラストで暗示されます。
 
「外部の世界を知らずに」いると書きましたが、これは正確ではありません。村の人びとは森の向こうに「町」という外部があることを知っています。でも、この「町」自体が現実の外部とは違ったものであることが、ラストで判明するわけで、「町」も村の物語を彩る要素のひとつであり、つまりは内部だったというわけです。
 
主人公の眼が見えないという要素はどう考えればいいのでしょうか。ブライス・ダラス・ハワード演ずる主人公は、相手の姿かたちは見えないけれど、そのかわりにその人特有の「色」を見ることができるのだと語ります。その言葉を信じるなら、怪物の正体が衣装を身にまとったエイドリアン・ブロディであることにも気づいたはずで、そういう意味でもラストのもろもろについては、村という物語を補完するための行動と受け取ることができます。彼女の盲目とは、外部を知らない村人の無知の隠喩であるというよりも、外部を知りながらそれを拒絶する口実のようなものとしてあるのだと思います。
 
トゥルーマン・ショー』との相違は何を意味するのか。『トゥルーマン・ショー』=男性の物語、『ヴィレッジ』=女性の物語と解釈することもできますし、恐怖の対象である森の怪物が人為的に作り出された物語であることに気づこうとしない村人たちの姿に、9.11以降の合衆国国民を重ね合わせているのかもしれません。