本日のお買い物

Blueprint 2: Gift & the Curse 534 もののたはむれ (文春文庫)
今月は松浦寿輝先生の文庫が2冊出ます。JAY-Zは昔持ってたんですけど処分してしまったのを買い直しました。
 
ここ2年ほど、いつだってどこかしら具合が悪くて体調のいい時など全くないんですけど、今週は腰が猛烈に痛くて、今日の昼過ぎは椅子にじっと座っていられないほどでした。よって映画も観られず。
 
そういえば、今週月曜日の朝日新聞夕刊に沢木耕太郎による『ミリオンダラー・ベイビー』評が載っていました。

この映画はイーストウッドによって完璧にコントロールされている。イーストウッドは自分がよくわかっている世界の、よくわかっている感情を、よくわかっている演技によって描いている。そこには、登場人物の関係を含めて、作品のためにわざとひねり出しているという無理や過剰さがない。わかっていることを効果的に組み合わせて無駄なく提出している。それはまさに、究極の職人技とも言える見事な手際である。
しかし、すべて「わかっている」という事情は、実は、見ている私たちにとっても同じなのだ。それが、いつかどこかで見たような気がするという「既視感」を生む理由でもある。しかも、イーストウッドは、この作品に限ってはその「わかっている」世界から逸脱しようとしない。

わたしには評価うんぬんということよりも、『ミリオンダラー・ベイビー』に「既視感」を感じる人がいるという事実に、ただただびっくりしてしまったのでした。確かに経験豊かなイーストウッド組のスタッフによる仕事は実に見事で、その仕事ぶりを完璧だと感じ、完成されてしまったスタティックな世界だと捉える人が存在する可能性は、十分あるのかもしれません。しかし、この映画は一見安定した作りをしているように見えながら、よく観るとちょっといびつな構造をとっていて、奇妙な細部をたくさん含んでいます。そしてイーストウッドは、これまでもずっといびつで過剰な作品を作ってきた作家です。そして、「わかっている」世界から常に逸脱し、その外側からやって来る「向こう側」の存在を、常に描いてきたと思うのです。それはおそらくイーストウッド自身にも正確には理解を超えたものでありながら、それをキャメラに収めるイーストウッド自身は確信に満ちている…
というようなことをものすごく書きたかったかというとそうでもなくて、ただ単に引用ボックスを試してみたかっただけなのでした。