『父親たちの星条旗』(クリント・イーストウッド)

新宿ミラノ2にて、2回目。
 
もちろんこの映画がすばらしい作品であることは間違いありませんし、132分の上映時間が充実したものであったことも疑いようのない事実なのですが、そうした「すばらしさ」や「充実ぶり」とは別のこととして、わたしはこのフィルムに希薄さの印象を強く感じました。そしてその「希薄さ」はフィルムの主題そのものと深く関わっているようです。
ここで語られるのは反復と複製をめぐる物語であり、つまりはこれもまた「映画」をめぐる映画なわけですが、幾度も幾度も反復され、繰り返し複製されるたびごとに薄く引き延ばされていく体験に、その当事者であった主人公たちのあるものはじっと耐え続け、あるものは耐え切れずにアルコールに溺れていく、そんな成り行きが描かれるわけです。
しかし、戦場の場面との対比において帰国後の戦時国債キャンペーンの緊張感の欠落ぶりを描くことがここでの主眼かと言われれば、反復と複製によって損なわれてしまった戦場における体験の切実さ、一回性のかけがえのなさを取り戻そうという話では決してないと思うのです。
戦場の体験自体もまた「希薄さ」に満たされていて、旗を山頂に立てるという行為も、小隊の仲間たちが次々に死んでいく様も、深刻さや劇的な状況からは程遠いあっけない出来事であり、無力感と圧倒的なむなしさに満たされた体験としかなり得ません。
 
問われているのは「映画」の持つ根源的な「希薄さ」にあなたは耐えられるのかということでしょうし、われわれは眼の前に映し出される一連の映像を何か別種のものに置き換えることで、それをかけがえのない貴重な体験だと錯覚し、「希薄さ」に直面することを無意識のうちに避けているだけなのではないだろうか、ということがここでの主題だ、などと言えば言い過ぎになるでしょうか。
 
ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』から受け継がれてきた「3人組」の主題も、非常に興味深いところです。手術も終わらぬうちに戦時国債キャンペーンに駆り出されるライアン・フィリップにはイーストウッド的な「傷」が託されていると言えるでしょうし、『荒野のストレンジャー』や『ペイルライダー』におけるイーストウッドの亡霊的ありようも、『ミリオンダラー・ベイビー』のモーガン・フリーマンを経由して、アダム・ビーチ演ずるネイティヴ・アメリカンの青年に受け継がれているようです。
 
反復と複製の物語ということで言えば、ここには主人公の息子であり、映画の原作者でもある人物が出てくるのですが、終盤で彼がインタヴューを収録したテープを再生して物思いにふけるあの書斎など、実にいいです。ノートパソコンに向かっている時に不意に鳴る電話の音、あれも本当に美しかった。
 
バリー・ペッパーについてもひと言書き残しておきたいところです。『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』(トミー・リー・ジョーンズ)もよかったですが、『父親たちの星条旗』の軍曹役は本当にすばらしかったと思います。出てくるシーンは決して多くはないのですが、アダム・ビーチが涙ながらに口にする「彼こそ真の海兵隊員だ」というセリフには、確かな説得力がありました。死の場面の疲れきった表情が忘れがたいです。
 
冒頭の場面で年老いた主人公がのぼりかけて途中で倒れ込む「階段」、それから戦場でライアン・フィリップの足元に不意に出現する「穴」など、まだまだ考えきれていないことが多く残っています。それから前作『ミリオンダラー・ベイビー』からの連続性・不連続性もいまひとつ整理がついていません。そして何よりもこのフィルムに拭い去りがたくまといついた「希薄さ」に、わたしは強く惹きつけられてしまうのです。
DVDが出たらぜひもう一度観たいと思います。