『シャーリー・テンプル・ジャポン・パートⅡ』(冨永昌敬)

池袋シネマ・ロサにて。非常に野心的な作品だと思いました。パート1がサイレント*1、パート2がトーキーという作りは、単にセリフの処理のみというわけではなく、パート1ではほぼ全編にわたってキャメラが一箇所から動かず、パンのみで舞台となる田舎屋敷で起こる出来事を捉え、俳優たちは超ロングで撮られているため顔も判然とせず着衣で識別されるのみであり、それ故に俳優たちは大げさな演技をせざるをえず、さらにショットが刻まれることもなく、ロングショットがえんえんと続くあたりは、黎明期の映画が演劇の舞台をフィックスのロングショットでずっと捉え続けたようなものなのかもしれません。それに対して、パート2ではキャメラが俳優たちにぐっと近づき、ショットが刻まれ、と同時に(虚構内)時間もパート1に比べれば大きく経過しますし、さらにフランス語のナレーションまでかぶせられるのですが、このナレーションはこれまでの冨永作品における登場人物たちの過剰なモノローグではなく、あくまで状況説明のためのものであり、しかしなぜフランス語なのかはよくわからず、パート1ではセリフ(の字幕)のみで十分に説明されていた状況を、あえてナレーションを用いて説明するのは、要するにそれが説明ではないからで、ここには(具体的なタイトルが出てこないけれど)映画の記憶を刺激するようななにかが感じられます。
物語的には「偽り」をめぐる話で、「スパイ」やら「不倫」やら「契約の不履行」やら「身代わり」やらの諸要素が、性的な妄想やアダルトビデオの映像・音響と相まっていかがわしい空気をあたりに充満させ、パート1の画面内で何の動きもないままに延々と続くロングショットのような宙づりの時間が物語の中盤を支配するのですが、パート1の階段だったり、唐突に響くヘリコプターの音だったり、パート2の、男たちがそこから出入りする窓だったり(あの窓にはジャン・ルノワールを想起させられました)、といった設計のすばらしさが、この作品を映画的な感触で満たしていて、そういった個々の場面・ひとつひとつのショットの魅力的な表情が、ストレートによかったです。
(8/29 一部記述を修正しました。)

*1:と言っても聞こえないのはセリフのみで、鳥のさえずりやスピーカーから聞こえる選挙演説の声などは聞こえてくるわけですから、これもまたトーキー作品であることは間違いないのですが。