『ミリオンダラー・ベイビー』

新宿ピカデリー1のレイトショーで『ミリオンダラー・ベイビー』(クリント・イーストウッド)を観てきたのですが、あまりの衝撃に何を書けばいいのか全く頭の中が整理できていません。冒頭、ヒラリー・スワンクが観客席の上の方からリングサイドのイーストウッドを見つめるショットがあって、その時点ですでになんとなくまがまがしい雰囲気はあったのですが、後半のあの展開に至っては涙も出ず、ひたすら呆然とスクリーンを見ているような有様でした。予兆に充ち満ちた前半では逆に涙が止まらず(というか、ここ数作のイーストウッド作品を観るたびに、「A MALPASO PRODUCTION」の文字を眼にしただけでスイッチが入ったように涙が出てしまうのですが)、そんな状態なので細部も観落としがいっぱいあるような気がします。もう一度観に行きますし、その前にも頭が整理できてきたら少しずつ修正を加えたりするかもしれませんが、ひとまず今の段階で思いついたことを書き散らしておきます。
 
まず、語り。全編をナレーションで覆うという手法は、おそらくイーストウッド作品にあっては初めてなのではないでしょうか。モーガン・フリーマンによるナレーションは、最後にいたって、イーストウッドの娘に送る手紙であることが明かされるのですが、この娘とイーストウッドの関係がよく分からない。手紙を書き送っても差出人受け取り拒否で送り返されてしまうわけで、どうやら過去に絶縁されてしまうようなひどい過ちを犯してしまったようなのですが、劇中でそのことが具体的に語られることはありません。このことと、イーストウッドが物語の序盤でヒラリー・スワンクにコーチしてくれと言われるたびに「女性はお断りだ」と言って断り続けることとは、もちろん何かしらの関係があるのでしょう。「女性の拒絶」という主題。
モーガン・フリーマンの視点は、実際に彼がその場に居合わせなかった場面まで語り、ラストのリハビリセンターでイーストウッドがやったことを物陰からじっと見つめている時には見えない方の眼だけが映し出されるわけで、モーガン・フリーマンはここでは「亡霊」的な存在として描かれているのだと思います。
「質問をするな」などの条件をつけた上でイーストウッドヒラリー・スワンクのトレイナーになることを承諾する場面で、ヒラリー・スワンクイーストウッドが握手を交わすショットがあります。いわば「神との契約」のようなある種の厳粛さが感じられるショットです。イーストウッドヒラリー・スワンクに「モ・クシュラ」(=「私の愛しい子、私の血」)という名前を与えますが、これもまた血の承認の儀式であり名付けの儀式であると言えるでしょう。ではこの物語にあってイーストウッドは「神」=「監督」であり、ヒラリー・スワンクは投射されるものとしての「映画」だということなのか、そして「映画」を安楽死させるという話なのかと言えば、その通りであり、あきらかにそういう風に作られてはいるのですが、しかしここにはそんな説明に収まりきらないまがまがしさがありますし、そしてそのまがまがしさこそが重要なのです。