『インビクタス 負けざる者たち』(クリント・イーストウッド)

吉祥寺セントラルにて。2回目。
この映画におけるネルソン・マンデラモーガン・フリーマンはいくつかのスピーチや指示を通して、かつてはアパルトヘイトの象徴であったラグビーチーム、白人の娯楽でしかなかったラグビーというスポーツを、人種の垣根を超えて国民全員が応援するチーム、スポーツへと変貌させたという意味で(そしてそのことを通じて南アフリカ共和国をひとつの「国」にまとめ上げたという意味で)、物語上において「演出家」directorとしての機能を担っていると言えます。
しかし同時に(だからこそ、なのかもしれませんが)、チームをワールドカップ勝利に導くにあたって、彼自身はほとんどなにもしていないという印象を、観るものに抱かせもします。物語の前半で試合に負け続けるスプリングボクスが、ワールドカップで連戦連勝するほど強いチームに生まれ変わる、その直接的な理由が物語上で明示されることはありませんし、少なくともそこにマンデラ=フリーマンが直接的にかかわることができたようには見えません。彼がしたことといえば選手ひとりひとりの名前を覚えたことぐらいで、むしろ選手たちの集中力を乱さぬようにと、なにもしないことを選んですらいたわけです。
そしてこのような物語的な機能においても、またいくつかのショットが提示するイメージにおいても、マンデラ=フリーマンは鮮明なイメージから遠ざかり、曖昧な輪郭を保ち続けます。彼はどこかしら亡霊じみた半透明の存在であり、グラウンドに立って大観衆の視線を集めながらも実際はそこにいないかのように感じられる人物であり、光を背にする存在であって、自身を前方に投影させる存在なのです。つまり彼こそが音響=映像としての「フィルム」filmであり、モーガン・フリーマンのイメージに重ね合わされるようにして、directorとfilmが同じひとつのものとして示されているようにすら思えます。