『トゥルー・ロマンス』(トニー・スコット)

DVDで。
タランティーノによる脚本は過去の映画作品への言及に満ちているわけですが、ここで重要なのは引用される映画そのものというよりも、いかにも映画に出てきそうなドラマティックな場面と主人公の関わりです。ここで言うドラマティックな場面とは、デニス・ホッパークリストファー・ウォーケンの対決場面であるとか、ショットガンを振り上げて雄たけびをあげるパトリシア・アークエットだとか(『悪魔のいけにえ』!)、さらにはラストの三つ巴の銃撃戦であるとかのことなのですが、しかし、そういった劇的な場面の現場に、主人公のクリスチャン・スレイターはことごとく立ち会うことができないのです。あるいは銃撃戦の時のように、それが始まる瞬間にその場に居合わせていないのです。早すぎるか遅すぎるか、事件の起こる瞬間にはその場にいなくて、早めに帰ってしまうか遅刻するかのいずれかという彼の立ち位置は、「映画を観る人」という設定に由来するものであるような気がします。つまり、映画を観ることとは、常に(撮影の)現場との時間差を生きるということでもあるからです。
となると、もうひとりの「映画を観る人」=ゲイリー・オールドマンとの対決場面が重要になってくるでしょう。なにしろここだけは当事者として「時間通りに」居合わせるわけですから。しかし見方を換えれば、スレイターはオールドマンらの麻薬取引の現場に遅刻しているとも言えます。それよりもここでは、アークエットの着替えを取りに行ったはずが、コカインの詰まった旅行バッグを持って帰ってきてしまうという、「取り違え」や「交換」の主題に注目すべきなのかもしれません。カンフー映画を観に行ったはずの映画館からパトリシア・アークエットを連れて帰ってくるところから始まるこの物語では、着替えの服がコカインと交換され、そのコカインと現金との交換のもくろみが警察やマフィアや映画プロデューサーを巻き込んで事態を複雑化していくのです*1
ともあれ、片方の眼が見えない売春婦の元締め(ゲイリー・オールドマン)にかけられた呪いゆえか、ラストでクリスチャン・スレイターは片眼を失ってしまいます。パトリシア・アークエットをあいだに挟んでふたりの隻眼の男が誕生するのです。もちろん片眼の存在とはすなわちキャメラであり、銃撃戦の開始に遅刻しつつもその現場にかろうじて間に合ったスレイターは、まさにそのことで単なる一観客から現場の光景をフィルム上に定着させるキャメラへと生まれ変わったのだ、と言えるかもしれません。
頭上から降りかかるポップコーンとラストの銃撃戦で人びとに降りかかる羽毛は、トニー・スコット的な「雨」の主題の変奏と見ることもできそうです。
(11/24記)

*1:他人と取り違えられてしまう男=ブラッド・ピットも出てきます。