保坂和志『カンバセイション・ピース』(新潮社)

カンバセイション・ピース

カンバセイション・ピース

ようやく読了。間に雑誌を読んだりしているのを差し引いても、4週間は長すぎます。もともとそれほど早い方ではなかったのですが、最近ますます読書スピードが低下していて、こうなってくると最初の方に書いてあったことなんかどんどん忘れてしまうわけです。とまあそんなことはどうでもいいのですが、この小説はものすごく刺激的でした。日常の風景を「そのまま」描写したかに見えて、もちろん「そのまま」に書くことはできないし、何も考えずに「そのまま」書こうとすればこのようなかたちにはならないわけで、前半部分の主要登場人物の出し方、話のさせ方、家の構造にまつわる描写など、実に綿密な設計に基づいて構築されていて、読んだときの「自然さ」が巧みに作り上げられたものであることは疑いようのないことなのですが、人も猫も語り手「私」の考えも家も庭の木も外から聞こえてくる音もすべて等価に描こうとする文章が、技巧を感じさせる以前にとても心地よいものであることもまた間違いないのです。
そしてラストの噛み合わない会話の場面。「私」と綾子の会話は一見食い違っているのにどこかしら通じ合っているようで、そのうち「妻」の理恵が帰ってきて、浩介や森中が加わり、ゆかりも入って、その家で生活し仕事をしている6人の人間と3匹の猫が一堂に会するというシーンなのですが、6人が集まってもひとつの話題が常に全員に共有されるわけではなく、あるときは全く個別に話をしたり独り言を言ったり鼻歌を歌ったりしていて他の人の言葉には直接的には応えず(でもどこかで共鳴し反応している)、イベントの企画が決まったことを森中が大声で伝えればその話題が瞬時にみなに共有され、猫は猫で人間とのやりとり、猫どうしのやりとりを重ねつつ、外の音にも聞き耳を立て、そこに(「私」の考えでは)過去にこの家に暮らした人びとや犬や猫の体験が、そして4年前に白血病で死んでしまった猫のチャーちゃんの記憶が、反響し共鳴するということになっていて、「私」が周囲の人びとに刺激を受けながら小説の中でうねうねと考え続けてきたことが、まさにこのラストの美しい場面において十全に実現されているのです。
この小説に展開されている「思想」「哲学」を、わたしは完全に理解できているわけではないのですが、人や猫や家やその他の「自然」とともに並列されるものとして、そのような「思想」「哲学」、「考える」ということが扱われていて、そこを読むことができればいいのだと思います。