舞城王太郎『暗闇の中で子供』(講談社ノベルス)

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

ちょっと長くなったので畳みます。ネタバレ全開ですのでご注意ください。

前作『煙か土か食い物』と同じようなものを期待して読み始めたのですが、こちらの予想をはるかに超える小説で、読み終えた今も正直とまどっています。とんでもない失敗作で、失敗作しか持ち得ない強烈な魅力が感じられます。もちろんそれは小説家の意図することで、しかしそれでも小説家のコントロールを超えた範囲で「失敗」しているとも思え、というかそういう類の「失敗」をこそ意図しているのでしょうし、かろうじて(?)それが実現されてもいるように思います。しかしいずれにしてもこれはかなり微妙な問題です。わたしが言うような「失敗作」などでは全然なくて、単なるむちゃくちゃを書き付けただけのくだらない作品だと言われればそうも見えるわけで、そのすれすれの線をねらっているのでしょうが、かなりレベルの低いことでしかないのかも知れません。でも、仮にここで書かれていることが「レベルの低いこと」であったとしても、そうならざるをえない必然が確かに存在する、その必然の感触がリアルに感じられて、そういう意味でもわたしはこの作品にとても強く心を動かされたのです。
たとえばこの作品はメタフィクションになっていて、「THREE」以降はミステリ作家でありこの小説の語り手でもある三郎の書いた小説だという解釈が可能です(三郎だから「THREE」と言うことなのでしょう)。というのも、「TWO」と「THREE」の間には明らかな齟齬・矛盾があるのです。わたしが読んだのは初版第一刷なのですが、「ガムテープで体を縛られて」「吐瀉物で喉を詰まらせて窒息死していた」(「TWO」88頁)と語られる橋本敬という少年は、「THREE」の127頁では「首と手足と胴体をバラバラに解体されてテーブルの上にまとめられて西暁中学校のグラウンドの真ん中に捨て置かれていた」ことになっていて、それ以降この矛盾については何の説明もありません。もうひとつ、「THREE」以降では「ユリオと最初に出会った場所」(421頁)である池は「魍魎ヶ池」という名前で呼ばれるのですが、「TWO」でふたりが実際に出会う場面では、その場所は「手の平池」と書かれています。最終章の「NINE」には「物語には、ときおり矛盾や齟齬が生じてしまう」(431頁)という記述があり、その意味でもこれらの矛盾点を小説家の意図に基づくものと判断することは、決して間違っていないでしょう。となると、ラストのアレやコレも全て語り手である三郎の作り出したフィクションだということになってきます。「TWO」の終わりに、布瀬由里緒と高野祥基(と橋本敬)がマネキン人形やバラバラ死体を地中に埋めることによって、前作の殺人犯・野崎博司が西暁の街に描いた図形に手を加えて、それぞれ全く違う「絵」を描こうとしていたことについて、語り手=三郎はこのように言います。

だからその絵を見て、誰かが空から降りてくるべきなのだ。UFOに乗って、待たせたなという感じで。俺がこれを小説として書くなら、必ずそういう結末にするだろう。物語というものはそういうものなのだ。誰かの熱意が空にいる誰かに通じたりしてもいいのだ。それが嘘であってもいいのだ。何故なら、誰かの懸命さは必ず他の誰かに見られているものだということは、物語が伝えるべき正しい真実だからだ。(112頁)

つまり、小説のラストで「オカチ」の顔の皮をかぶって登場する人物とは「宇宙人」に他ならないのです。そしてそのようなラストを持つ「THREE」以降の小説内小説と、その全体を含む『暗闇の中で子供』というこの小説そのものもまた、「惑星探査機パイオニア10号の本体部分に取り付けられた」「人類からのメッセージ」(99頁)同様に、果たして存在するかどうかも定かではない地球外生命体へ向けての、届くあてのない決死のメッセージであるはずです。それは自ずと命がけのものになるでしょうし、あるいは一見ばかばかしく見えもするでしょう(464頁の絵に込められた、稚拙さとくだらなさと、同時に伝達への諦念と絶望があらかじめ織り込まれた哀しみ)。そのことが小説内小説を通して語られることの屈託と絶望にこそ、この小説のかけがえのなさがあるように思います。
そしてさらに、この「屈託と絶望」が所詮は「満腹ガキ」のそれでしかないのか、あるいはもっと切実な何かなのかを検証すること、これを課題として残しておきたいとも思います。
(10/16加筆修正しました。)