『キング・コング』(ピーター・ジャクソン)

新宿プラザにて。新年1本目はこの映画でした。
ナオミ・ワッツを見つめるキング・コングの視線、あるいはナオミ・ワッツキング・コングが交わす視線は、コングが一方的に「見られる」存在であったオリジナルの1933年版にはなかった(あるいはそれほど強調されていなかった)ものであり、それがオリジナル版の約2倍という上映時間(3時間超)を根拠づけている、つまりコングの視線の分だけフィルムが長くなっているのだ、という仮説はそれらしく聞こえるかもしれませんがもちろん事実と異なるでしょう。結果的にそう見えたとしても、コングを「政治的な正しさ」のもとに描写するなどということにはピーター・ジャクソンは無関心のはずです。むしろ次のように言うことはできないでしょうか、先日の日記にも書いたとおり、1933年版においてはキング・コング=「映画」であったのに対して、ピーター・ジャクソン版ではナオミ・ワッツこそが「映画」であり、コングはそれを「見る」ものとして位置づけられているのだ、と*1。有り体に言ってしまえば、ピーター・ジャクソンはコングに同一化しているということになるのでしょうが、しかしそれだけではないのが興味深いところで、彼はジャック・ブラックとも視線を共有しているのです。一方でキング・コングとしてナオミ・ワッツを見つめつつ、他方ではコング、ワッツ、エイドリアン・ブロディらによるこの物語を演出し、外側から見つめるものとしてのジャック・ブラックのポジションにも立っている、というわけです。このピーター・ジャクソンジャック・ブラックキング・コングへの2極分裂が、3時間という上映時間を必要とした理由なのでしょう。
(1/9記)

*1:ナオミ・ワッツをめぐる「鏡」(あるいは「反射」)の主題というのも、ここに関係してくるのでしょう。