『透明人間』(ジョン・カーペンター)

DVDで。週末恒例の「ジョン・カーペンターの復習」シリーズです。この作品、タイトルにいつもの“John Carpenter's”がついていないことからも推測されるように、雇われ監督的な仕事だったようです。音楽も自分でやっていないし、製作のサンディ・キングやキャメラのゲイリー・B・キッブらいつものスタッフも参加していません。ではカーペンターらしさに欠ける駄作かといえば全然そんなことはなく、実に刺激的な試みに満ちた作品なのです。
まだらに透明化したビルの中の、同じく透明化してしまったチェヴィ・チェイスを発見する諜報部員サム・ニールとその部下たちの見上げる視線は、ラストシーンで工事中のビル屋上の足場にいる(透明な)チェヴィ・チェイスサム・ニールを見上げるダリル・ハンナたちの視線に接続されます。「悪人」サム・ニールはその足場から落下するのですが、それはさておき、この作品では視線こそが重要なのであり、(ほとんど映画館のような)講演会場を抜け出して椅子に横になり眠ってしまうチェヴィ・チェイスは、視線を放棄したことの報いとして、透明化させられたと見ることもできます。
透明人間を映画で描くこととは、透明人間「を」見ることをめぐる試みであると同時に、透明人間「が」見ることをいかに表現するかについての探求でもあります。カーペンターもそこは非常に苦労していて、主観ショットを多用し、ヴォイスオーヴァーを使い、主人公が画面上見えない純粋な客観的ショットと、主人公の主観に基づいて主人公が可視化される客観ショット(主観ショットとは別のものです)を交互に挟み込んで、事態を描いています。そうしなければサム・ニールたちの視線が主人公のそれと「交わらない」ことを描くこともできないし、主人公の視線自体も表現できません*1。他方で、諜報部員とは偏在する視線によって監視を行い、標的を検索・探知してしまう人びとなわけです。彼らは透明人間を肉眼で見ることができないために、熱感知スコープを用いたり電話の盗聴をしたりと、透明人間の痕跡を探すことで彼の座標を計測するわけですが、ここで「痕跡」というものが、透明人間を描くに際して非常に重要な役割を果たしていることも、指摘できると思います。雨であったり、工事現場のセメントだったり、ファンデーションや口紅によって描かれた顔だったりと、チェヴィ・チェイスの表皮に付着する何かが、彼の存在をサム・ニールたちに指し示し、同時に観客に対しても示すのですが、視線が「交わらない」ことと同様に、「痕跡」には常にズレが伴い、透明人間それ自体との直接的接触は(ダリル・ハンナ以外の人物には)達成されず、常にあと一歩のところで裏切られるのです。
ところでこの作品の公開は1992年ですが、前作が88年の『セイリブ』、『透明人間』の後に『マウス・オブ・マッドネス』(1994年)、『光る眼』(1995年)、『エスケープ・フロム・L.A.』(1996年)、『ヴァンパイア/最期の聖戦』(1998年)と続きます。もともとクラシカルなフィルムを作る人ではありましたが、この時期のジョン・カーペンターはリメイク企画やSF・ホラーを装った西部劇を次々に撮り上げており、どの作品も観るものの映画的記憶を強く刺激するものになっています。『透明人間』においても、街路を捉えたショットひとつとっても非常にクラシカルで、主人公が隠れる海辺の別荘も『キッスで殺せ!』(ロバート・アルドリッチ)のラストを思い出させられますし、列車の場面なども過去のいくつかの作品がたちどころに思い起こされます。
(10/8加筆修正しました。)

*1:あくまでハリウッド映画の既成の文法においては、という意味ですが。