『夜よ、こんにちは』(マルコ・ベロッキオ)

渋谷ユーロスペース1にて。恥ずかしながらマルコ・ベロッキオ作品は初めてだったのですが、これがとんでもない大傑作で、中盤以降鳥肌立ちっぱなし、泣きっぱなしでした。老練さと若々しさが奇跡的な一致を見せるこのフィルムの、慎ましやかでありかつ過激なまでに過剰であるそのありようが、例えようなく魅力的なのです。
 
まずは卓越した空間設計。ロベルト・ヘルリツカ演ずるアルド・モロ首相が法王に宛てた手紙を朗読し、その声を「赤い旅団」のメンバーたちが扉の陰で聴く場面、マヤ・サンサがバスに乗っているとその窓の外をデモに向かう人びとの掲げる赤旗がはためくシーン、田舎での法事の席で幸せそうな新婚の夫婦がテーブルの後ろを行き過ぎるところ、さらにはアパートの部屋でしばしば捉えられるテレビ画面(フレーム内フレーム)と、フレーム内の空間に別々の時間の流れるふたつの層を同居させるその画面設計が、物語を単線的なものに留めることなく、複数的な時間=空間を開いていきます。
そしてさらに、その空間にフレーム外の世界が次々と導入され、フレームを揺るがします。物語の主要舞台となるアパートをマヤ・サンサたちが内見する冒頭のシーンで、庭に通じる扉を開けた瞬間、その隙間をすり抜けて部屋に入り込む黒猫が、彼らの密室に侵入する一番最初の「世界」です。続くシーンで窓の向こうの庭に二階からふわりと落ちてくる白いシーツや、誘拐事件の当日に突然隣人に押しつけられる赤ん坊のかたちをとって、あるいは画面外から響くテレビらラジオの音声として、フレーム外の諸要素が次々と境界を侵犯し、フィルムを活気づけるのです。
 
マヤ・サンサが囚われた首相をのぞき穴から何度ものぞき見る、その瞳を捉えたショットが非常に印象的です。首相と交渉する組織のリーダー、ルイジ・ロ・カーショがかぶるマスクも、眼だけを出して素顔をさらけ出すことを拒んでいます。そう、マヤ・サンサが結婚指輪や日焼けのあとで人目を欺くように、彼らは常に彼ら自身の真の姿を他者の視線にさらすことなく、一方的に視線を他者に向ける存在であろうとします。その視線の先にいるのがロベルト・ヘルリツカ=モロ首相であり、つまりモロ首相とは「映画」なのです。
しかし、首相は視線の対象として一方的に見つめられる地位を甘んじて受け入れるわけではありません。じきに彼はのぞき穴を逆にのぞき込んで、彼を見つめる瞳を見つめ返すことになるでしょう。先に述べた手紙の朗読場面、扉を開けたままにして自らの声を聴くことを求める首相に対して、「赤い旅団」のメンバーたちは首相に背を向けるかたちで、扉の陰に身を隠すようにして音声を耳にするのですが、ここで瞳を拒み耳を澄ませることを求めるモロ首相の姿は、ローマ法王に宛てた手紙をどう綴ればいいか悩んでいるという頼りなげな言葉に反して、どこかしらまがまがしい凶暴さを帯びつつあるように見えます。ラスト、マヤ・サンサの夢の中で、モロ首相が部屋を抜け出し、雨の降る車道をコートの襟を立てて歩いていく姿が感動的なのは、そこに奇形的な自由を手に入れた、決して輝かしいとは言えないけれどどこかしらすがすがしい「映画」の姿があるからなのです。
 
そしてここにこそ、このフィルムの「政治性」が、浮かび上がってくるのだと思います。
(5/29記)