『ベッドルームの女「窓」』(カーティス・ハンソン)

DVDで。
 
スティーヴ・グッテンバーグ演ずる主人公は、最初は一方的に「見る」立場にあったわけですが、成り行きから証言台に立つことで突如「見られる」側になってしまい、そのことによってそれまで保持していた犯人に対する優位性を喪失して、今度は逆に自分が犯人と警察の両者から追われる立場になります。その「見る」側から「見られる」側への転換点を、法廷における視線劇として描いてみせるあたり、とてもおもしろかったです。
 
実際に事件を見たのはイザベル・ユペールであり、主人公は彼女の目撃したことを彼女の代わりに警察に告げ、それがきっかけで次第に事件に巻き込まれていくのですが、ここには「代理」の主題と同時に、「映画と視線」の主題が含まれています。つまり、人はまず他者の視線に誘われることで、一方的に「見る」(ことができると思いこんでいる)存在=観客になるということ、また観客とは事後的にしか「見る」ことができない存在であること、そしてその事後性により、観客は「見る」という行為から逃れられなくなることなど、映画を観ることをめぐる思考がこのフィルムの全体を貫いています。
 
となると犯人から見つめ返されることは、「映画」から自分(観客)に差し向けられる「視線」と、その「視線」に対する潜在的な恐怖*1を意味するかに思われますが、この作品ではその点はあまり強調されません。それはここでの犯人もまた「見る」ことを契機として犯行に及ぶからであり、犯人も映像と音響に魅了されたひとりの観客であるからなのでしょう。そして犯人の「視線」を自らに引きつける振る舞いを通して事件を解決に導こうとする主人公たちの行動は、ここに至って彼らが意思的に「映画」の側に身を置こうとしていることを意味しており、つまりは「観客」から「映画」への跳躍が描かれているのです。
 
無実の罪を着せられた主人公が身を隠しつつ真犯人をつかまえるという物語、オペラの上演中に殺人が犯される劇場の場面、金髪と黒髪という女性ふたりの組み合わせ、犯人を威圧的に叱責する母親らしき人物の存在など、全編にわたってヒッチコックへの言及が見受けられます。物語の後半でスティーヴ・グッテンバーグと行動を共にするエリザベス・マクガヴァンがとても魅力的でした。

*1:すなわち、一方的に「見る」という行為に、観客であるわたしたちは無意識のうちに後ろめたさを感じているということです。