『ドリーマーズ』(ベルナルド・ベルトルッチ)

boid presents 爆音ナイトもついに最終週。本当は冨永昌敬コンボピアノトークがあった昨日行く予定だったのですが、無理だったので今日になってしまいました。
公開時に観て以来2回目なのですが、やっぱりいい映画です。
 
(2005/7/27追記)某サイトにリンクしていただいたのに「いい映画です」だけでは来てくれた方々にあまりに申し訳ないのでちょっと加筆。もともと後で書き足すつもりでいたのを放置してしまったのですが、それというのもこの映画のよさをどう表現したらいいのか、いまだによくわからないからなのです。ひとつには、ベルトルッチ的主題の変遷という視点がないと、この映画については語れないのではないかと感じているからなのですが、そのためには自分のあまりに曖昧な記憶を正すべく全作品を観直さねばならず、それなりの時間も必要となってきます。ですのでそれはまた別の機会にして、ここではあくまでこの作品に限っての感想を書き留めておくことにします。
たとえば冒頭のエッフェル塔を下降移動で捉えるタイトルバックがすばらしい(バックに流れるジミ・ヘンドリックスの生々しさ!)とか、ラストでアパルトマンの窓ガラスが割れて、突然外の世界の騒音、機動隊とデモ隊の衝突の音が室内になだれ込んでくる場面の劇的な転換だとか、よかった場面をいろいろ挙げることはできるかもしれないけれど、他方でその隔離された室内への外部世界の侵入の図式的なありようだとか、映画の場面を反復するシネフィル的身振りの気恥ずかしいナイーブさだとか、生活から免罪されたかのような観念的な議論の空疎さだとか、いろいろ批判しうることもまた事実だとは思うんです。これでは68年だの5月革命だのを懐かしむ老人の回顧に過ぎないだろう、と。
しかし本当にそうなのでしょうか。映画とはそもそも反復とズレの装置であり、その映画の反復を演じてみせる主人公たちがいて、さらに言えば双子の間にもズレが確かに存在し、そしてエヴァ・グリーンによる口唇器の誘い*1によって偶然に導入されたアメリカ人青年の場違いぶりが、そのズレを際立たせるわけです(「映画」と「現実」のズレ)。そこに持ち込まれる「現実」はあくまでカギカッコつきのものでしかないでしょうけれど、フィルムに刻み付けられた幾層ものズレ自体は間違いなく現実であって、それを見つめることこそ映画を観るということなのではないでしょうか。などと言うといかにも貧困な言い回しにしかならないけれど、実際には口唇器の説話論的機能の見せる豊かな表情などひとつとっても、非常に魅力的な作品なのです。

*1:この映画、性愛をめぐる作品というよりも、口唇器をめぐる作品です。